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2022年10月30日 礼拝「かしらであるキリスト」エペソ1:20~23

  • hikaruumichurch
  • 2022年10月31日
  • 読了時間: 9分

 今朝はまず、週報の表紙に記されている今年度のみことばを読みましょう。教会はキリストのからだであり、キリストは教会のかしらです。キリスト信仰者である私たちはキリストのからだの各器官であり、一つのからだを構成する各部分とされています。神が定められたこの事実に立って、教会のかしらであるキリストに、キリストのからだの一器官とされた私たちキリスト信仰者として、どのように聞き従って歩むのかを確認します。


 22節。神はキリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。そして23節。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところですと述べられています。


 3節。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいましたとあります。私たち、すなわち教会です。


 1章では、神が下さる霊的祝福を4つ見ることができます。第1は4~5節です。父なる神が私たちを、世界の基が据えられる前から、キリストにあって選び、主イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子どもにしようと定めておられました。神の一方的な愛と恵みによることであり、神の選びがなされていたということです。


 霊的祝福の第2は7~11節です。7節。罪人である私たちが、罪のゆえに罰せられ、滅ぼされるのではなくて、罪の赦しに与かるために、父なる神は御子イエスを、私たちの身代わりとして十字架で処罰し、私たちの罪の贖いとされたのです。これもまた神の豊かな恵みによることです。私たちは御子の血による贖い、罪の赦しを受けています。


 霊的祝福の第3は13~14節です。キリスト信仰者とされた私たちには、約束の聖霊によって証印が押されており、御国を受け継ぐことの保証として、聖霊が私たちキリスト信仰者の心に住んでおられます。この助け主の聖霊は17節、知恵と啓示の御霊として、18節以降に記された霊的な成熟へと、私たちを、教会を進ませるのです。


 霊的祝福の第4が今日の箇所です。父なる神は、子なるキリストを、かしらとして教会に与えられたのです。20節からに述べられていますが、すべてのものをその権威のもとに治める支配者とされたキリストが、教会にかしらとして与えられているということです。教会はキリストのからだであるとされました。


 神は私たちを、世界の基の据えられる前からキリストのうちに選び、神の子とするために、御子を人として遣わし、十字架で死なせ、その血による贖い、罪の赦しを備えてくださいました。さらに私たちキリスト信仰者の心に聖霊を住まわせ、御国を受け継ぐ保証とされ、この地上においてはキリストのからだの各部分とし、キリストのからだである神の教会に、キリストをかしらとして与えられたのです。


 18~19節。パウロは、私たちの心の目がはっきり見えるようになってと祈り求めています。神に召し出された者、キリスト信仰者とされた私たちが抱いている望み、すなわち天の御国に入れられ、永遠を神と共に生きるということが、いかに栄光に富んだ祝福であるのかを悟ることができるようにと祈ったのです。


 私たちの目はどうしても、この地上のことに向けられてしまいます。しかしそれらが、どれほど魅力的に見え、心が惹かれたとしても、すべてこの地上に置いていくのです。父なる神がキリストにあって与える霊的祝福とは全く違います。キリスト者となった私たちは十分に警戒しなければなりません。この世での祝福を追い求め、目先の物質的な祝福に心を奪われて、栄光に富む霊的祝福を見失ってはなりません。この世の人々は、霊的祝福に魅力を感じず、くだらないと思うでしょう。かつての私たちもそのように思っていました。しかし今、この望み、この約束された祝福がどれほど栄光に富んだものであるのかを心の目が開かれて、はっきりと見る者となっているのです。だから見る必要があります。


 さらに私たちの心の目が開かれて、キリスト信仰者に働く神の全能の力がどれほど偉大なものであるかをはっきりと知る必要があるのです。その全能の力はキリストのうちに働いて、キリストを死者の中からよみがえらせました。この全能の力は私たちにも働いて、神の定められた時に、私たちも死からよみがえるのです。復活の約束です。


 20~21節。さらに神は、その全能の力を働かせて、人となって来られた御子イエス・キリストを、ご自分の右の座に着かせて、すべてのものを統治する支配者とされました。この全能の力を、私たちキリスト者も知ると約束されています。19節に、あなたがたが知ることができますようにとあります。私たちは知らなければなりません。


 これは知識として知るということではなく、体験するという意味において知るのです。神の全能の力は、神を信じる私たちを通して働きます。キリスト信仰者はいつでも少数なので、人々を恐れたり、神経質になっているかもしれません。しかし恐れる必要は全くありません。全能の神が私たちと共におられます。神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神のすぐれた力は偉大だからです。私たちに力はありません。私たちは無力で、弱い者たちです。しかし無力で、弱い私たちに神の全能の力は働きます。私たちはこのすぐれた神の力を、体験的に味わい知る必要があるのです。弱さを自覚する者だけが、信じる者に働く神のすぐれた偉大な力を味わい知ることができるのです。


 22~23節。父なる神はすべてのものをキリストに服従させました。キリストは万物を統治する支配者として、今の世においても、次に来る世においても、すべての支配、権威、権力、主権の上に君臨しておられます。このかしらであるキリストを、神は、教会に与えたのです。教会はキリストのからだであり、キリストは教会のかしらです。


 私たちは主イエス・キリストを信じた時に、キリストのからだの一器官とされ、キリストのからだを構成する各部分として教会に加えられたのです。神はキリストを信じる私たちを集めて教会とし、かしらとしてキリストを教会に与えられました。


 私たちはみな、キリストを信じることで罪の赦しを受け、罪からの救いに与りました。感謝です。しかしそこで留まっていてはなりません。かしらであるキリストに従って歩むことを求めることが大事です。キリストを自分の主として信仰の歩みをしなければ、その信仰は死んでいるのも同然です。信じていないことと変わないということです。


 自分はキリストをかしらとして崇めて、聞き従おうとしているだろうか。自分の主としているだろうか。この吟味は大切です。キリストを信じる者は、だれもがキリストのからだの一器官とされました。一人ひとりがキリストのからだを構成する大切な器官です。


 私たちのからだの各器官は、脳の指令によってそれぞれが適切に働きます。健康なからだは各器官の適切な働きで保たれていると言えます。私たちキリスト者も、キリストのからだに属するものとされ、かしらであるキリストの指令に従って、自分に委ねられた働きをするように、信仰の歩みをするようにと招かれています。


 私たちのからだを構成する各器官と、キリストのからだを構成する私たちキリスト信仰者との違いは、からだの各器官は自分の意思を持つことなく脳の指令に従うけれど、私たちキリスト者は、自分の自由意思で従う決断をした上で、従うということです。かしらであるキリストに従う決断をしなければ、信仰による一歩を踏み出さないままです。


 かしらであるキリストに従うことは簡単ではありません。罪の性質を引きずっている私たちはキリスト信仰者になっても、自分が王様でいたいという思いがあり、自分の思い通りに動きたいのです。だから吟味が必要です。救い主としてのキリストは信じたけれど、自分のかしらとしているかの吟味です。キリストを自分のかしらとしていなければ、私たちはキリストに従う歩みをしないことになります。それは真の救いとはなり得ません。神が御子を罪の贖いとされたのは、御子を信じる者たちのかしらとするためです。そしてキリストがかしらになるとき、罪からの完全な解放、救いを味わうことになるのです。


 私たちは、キリストに自分の心の王座を明け渡しているのか、それとも自分がなお君臨しようとしているかを、絶えず問い質す必要があります。そして繰り返し、心の王座をキリストに明け渡すこと、かしらとしてのキリストを仰ぐことを決断することが大事です。


 父なる神が、かしらであるキリストを教会に与えられました。だから教会に属する者とされたキリスト信仰者一人ひとりにとっても、キリストはかしらです。主イエスは、私たちが何をしたかではなく、主の御前でどのようであろうとしいているかを問われます。


 マタイの福音書7章21~22節。自分は主の御前でどのようであろうとしているかを問われる箇所です。この人たちは主イエスを信じた者たちで、主イエスの権威で輝かしいわざを行っていました。そのような自分を、その業績を誇っていました。しかし23節。主イエスは彼らを全然知らないと言われます。なぜでしょう。


 彼らはキリストをかしらとはせずに、自己実現のためにキリストの権威を使っていたのです。主イエスの名で預言することも、主イエスの名によって悪霊を追い出すことも、主イエスの名によって奇蹟をたくさん行うことも、父なる神のみこころを行うことから遠く離れていました。まさに自己実現のためであり、自分がほめられるための手段として、主イエスの権威を持ちだし、著しいわざを行ってきたのです。そしてここで列挙している偉大なわざを行ったのだから、当然主に受け入れられると思い込んでいたのです。


 恐ろしい錯覚です。私たちはこのような間違いを犯すことのないように、警戒し、吟味しましょう。キリストをかしらとしているか、父なる神のみこころを思い、みこころにかなう歩みをしようとしているのか、自分の信仰を吟味し、問い質す必要があります。


 キリストをかしらとする信仰者に対して、神のすぐれた偉大な力は働きます。神の偉大な力が働いて、どのようなわざに用いられるかは、かしらであるキリストが決めることです。私たちはただ、用いられやすい者として、自分を差し出すだけです。


 私たちは主イエス・キリストを自分の救い主として信じた者たちです。心からキリストをかしらとして崇め、自分の主としてキリストに聞き従う歩みを追い求めましょう。一人ひとりがそのようなキリスト信仰者になることによって、教会もまたかしらであるキリストに聞き従い、キリストに用いられていくのです。教会がキリストのからだとしてふさわしく建て上げられていくことを祈り求めて、私たち一人ひとりは、自分をキリストのからだの部分として差し出すということです。この教会が、真にキリストのからだとして建てあげられるために、一人ひとりが整えられる必要があります。



 
 
 

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