2022年10月16日 礼拝「バルナバに学ぶ」使徒 15:36~41
- hikaruumichurch
- 2022年10月16日
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バルナバという人物を観察していくと、彼が神の恵みの中で、自分に委ねられた持ち味を活かすことで、主なる神の大きな働きに用いられている姿を見ることができます。使徒の働きを読み進める中で、いつかはバルナバに学ぶ時を持ちたいと思っていました。今日の箇所を手がかりにしてバルナバという人物に焦点を当て、彼のその信仰姿勢を確認し、私たちの信仰姿勢として身につけたい、信仰生活に活かしたいと思うのです。
バルナバについての最初の記述は4章36節です。彼は、使徒たちからバルナバ、すなわち慰めの子、脚註では励ましの子という愛称で呼ばれていました。本名はヨセフであり、キプロス生まれのレビ人です。この紹介文書に、彼の人となりが見られます。さて、私たちはどのような呼び名をつけられるでしょうか。自分ならどんな愛称をつけられるかと考えてみてください。他の人の役に立つ、そして主のご用に間に合うにふさわしい、すばらしい呼び名をつけられるキリスト信仰者として霊的に成長したいと思わないでしょうか。
次にバルナバについて記されているのは9章です。サウロが主イエスの一方的な、そして大きな恵みを受けて、自分の間違いを認め、主イエスを信じる者とされた箇所です。26節からの所で、サウロはエルサレムの教会に仲間として入ろうと試みるのですが、エルサレムのキリスト者たちはサウロの回心を信じることができずに、恐れ、敬遠します。その時バルナバがサウロを引き受け、そして弁護するのです。27節。
往々にして私たちは、面倒なことには頭を突っ込みたくないと思ってしまいます。人のために時間と労力を使うことを避けたいと考えるのです。またその人と率直に話すことをせずに、自分が勝手に思い込んでいる先入観でその人を断定し、その先入観に従って扱ってしまうことがあります。バルナバはこれらのすべてから解放されていました。
バルナバは直接サウロに会いました。率直に彼の話を聞き、先入観を持たないで、今のサウロの現実を知ろうとしました。そして主イエスによって全く変えられた新しいサウロを主にあって受け入れたのです。サウロに会いに行き、サウロと親しくなることは、他のキリスト者たちの不評を買う恐れがありました。他のキリスト者たちから非難され、排除される可能性もあります。しかしそのような恐れを克服して、とにかくサウロの真実な姿を見極めることが大切であるとバルナバは考えたのでしょう。そしてサウロがどのように主イエスにお会いしたのか、その時何が語られたのか、今サウロはどのように生きようとしているのかを確認したのです。次にバルナバはサウロを使徒たちに紹介するために時間と労力を払いました。あの凶暴な迫害者サウロのために弁護をしたのです。バルナバの執り成しがなければサウロがエルサレムの教会に、そして使徒たちに受け入れられるには、相当の時間を要しただろうと考えられます。
バルナバについての記述の3番目が11章です。シリアのアンティオキアにユダヤ人と異邦人混在の教会が誕生し、この教会を霊的に指導する役目がバルナバに与えられました。エルサレムの教会は、数いる霊的な指導者の中でバルナバを選んで派遣したのです。バルナバが選ばれた第一の理由は、彼がヘレニスト、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者であったということです。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在している教会を、主にあって一つであるとの真理に導くために、ギリシア人をもユダヤ人をも理解しているヘレニストのレビ人、バルナバはうってつけの人物と言えます。彼の賜物は慰めであり、励ましです。慰め、真理に基づいて勧め、教える中で、教会は整えられて行くのです。
23節。バルナバがまずなしたことは、神の恵みを見て喜んだことです。粗を探そうとすればいくらでも見つかるのが、私たちの集まりでしょう。バルナバはアンティオキアの教会の中に粗を探すのではなく、ユダヤ人と異邦人が一つの教会を構成している、その姿に神の恵みを見、そして喜んだのです。もし自分が粗探しをし易い傾向があるなら、意識的に神の恵みを数えるようにしてみてください。バルナバはまず神の恵みを見て喜び、その上で、心を堅く保って、いつも主にとどまっているようにと励ましました。
24節。彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であったと紹介されています。この、聖霊と信仰に満ちているというところに、私たちキリスト信仰者の目指すあり方があります。バルナバは使徒ではありません。しかし使徒であろうが、なかろうが、肩書きに価値はありません。肩書きではなく、聖霊と信仰に満ちているかが、主のご用に間に合う者として整えられ、用いられるかの基準です。聖霊に満ちているとは、完全に自分を聖霊に明け渡している状態、聖霊に信頼していて、その語りかけに敏感であり、その促しに素直に応じようとしていることです。信仰に満ちているとは、神のことばに自分を完全に合わせ、従わせているということです。自分が何を、どう信じるかではなく、神を神として崇め、神のことばを神のことばとして、自分を従わせる信仰者であることです。
24節後半。こうしてです。聖霊と信仰に満ちているバルナバの指導によって、大勢の人が主に導かれました。主イエスを信じる信仰によって神の教会に加えられたのです。私たちもまた、追い求めるべきは、聖霊と信仰に満ちている歩みです。他の何かをではなく、聖霊と信仰に満ちている歩みを追い求める時、他の必要もまた整えられていくのです。
25節。この時バルナバは、もう一つの大切なことをします。大勢の人たちが主に導かれたことで、自分一人では適切な指導が難しいと判断した時、サウロを捜しにタルソへ行ったのです。アンティオキアからタルソまでは180kmくらいあるでしょうか。かつての迫害者、しかし今は主の恵みの中で回心し、しかも異邦人に福音を運ぶ選びの器として召されているサウロを、アンティオキアで生まれた異邦人を含む神の教会の霊的指導者として立たせるために、タルソまでサウロを捜しに出かけました。ここにもバルナバのすばらしさを見ることができます。人の持ち味、賜物を引き出して、それを活かそうとする、自己中心的ではないバルナバのすばらしさです。神の教会にとって、この時何が必要なのかを考え、そしてそのために必要な人材を求めて捜しに行く姿勢、聖霊と信仰に満ちている慰めの子、励ましの子と言われるバルナバは、謙遜で主に用いられる人物でした。サウロはこのバルナバの招聘を受けることによって、あの偉大な伝道者パウロへの道を進むことになるのです。埋もれ掛かっていたパウロが掘り起こされた出来事でした。
26節。バルナバとサウロは1年の間アンティオキアの教会で大勢の人々を教えます。アンティオキアの教会の信徒たちは、アンティオキアという異邦人社会において、初めてキリスト者という呼称で呼ばれることになりました。いつもキリストの主権を明らかにし、明けても暮れてもキリスト、キリストと言って、主に従っている彼らの姿を見た人々が、一種のあだ名として呼び始めたと言うことができます。私たちは未信者の人々にどう見られているかと考えます。インパクトを与える存在とされたいですね。
13章において。アンティオキア教会は聖霊の促しを受けて、バルナバとサウロを最初の海外宣教師として遣わすことにします。その第一次伝道旅行の様子が13~14章です。この伝道旅行のリーダーは初めバルナバでした。ルカもバルナバとサウロという書き方をしています。しかし途中からこの一行の記述を、パウロの一行とか、パウロとバルナバと変えています。この伝道旅行のリーダーがパウロに変わったということでしょう。バルナバは自分とパウロの賜物の違いを見て取って、この方がより主のご用に間に合うと考えたのではないでしょうか。ここにも自分の立場や肩書きに囚われていない、聖霊と信仰に満ちているバルナバを見ることができます。
13節。この伝道旅行に同行していたバルナバのいとこヨハネ・マルコが、伝道旅行の途中で帰ってしまいました。その理由は明らかにされていませんが、マルコがホームシックになったとか、伝道旅行のリーダーがバルナバからパウロに変わったことに不満を抱いたとか、最初は郷里伝道としてキプロスへ行ったはずなのに、トルコ半島に行くことに納得しなかったとか、いろいろと考えることはできますが、その真実は分かりません。
さて今日の箇所を見ます。15章36節。パウロはバルナバに再度の伝道旅行を提案し、バルナバも同意しました。しかし誰を同行させるかで意見が分かれたのです。バルナバは再度マルコにチャンスを与えたいと考えました。しかしパウロは途中で仕事を投げ出したような者は同行させない方が良いと考えました。37~38節。
39節。ふたりは激しい議論をしました。これは考え方の違いであり、それぞれの性格の違いから来ていることでしょう。私たちも意見の違い、考え方の違いがあり、それを率直に言い合える信頼関係を保てるなら幸いです。相手の意見を否定することと、相手を人格的に否定することとは違います。私たち日本人の弱い部分は、意見を否定されると、自分の存在まで否定されたと思い込むことです。意見や考え方の違いがあるのは当然であり、自分の意見が受け入れられなかったとしても、自分が否定されたのではないのです。
ヨハネ・マルコをどう扱うか、伝道旅行に同行させて再度チャンスを与えたいと考えること、ヨハネ・マルコの霊的状況から見て、伝道旅行という場は不適切だと考えること、どちらが正しくて、どちらが間違っているとは、簡単に結論は出せない問題です。この問題を解決するための結論は、二つの伝道チームに分かれることでした。
目的は、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちの様子を見ることです。その目的のために、バルナバはマルコを連れてキプロスに行き、パウロはシラスという新たな働き人を伴って、トルコ半島へと向かったのです。その後、ヨーロッパ伝道へと導かれることになります。主は熱心に主に仕えようとする人々を用いられるのです。
バルナバの使徒の働きでの記述はここで終わります。この後のパウロとバルナバの関係がどうなったのか、興味がありますね。コリント人への手紙第一9章でパウロは、バルナバを自分と同じ働き人として紹介しています。コリント人への手紙は、パウロの第三次伝道旅行の際にエペソで書かれたものですから、15章以降も、パウロとバルナバの協力関係が続いていたと考えられます。敵対して、分裂したわけではなかったということです。
ではマルコはどうなったのでしょうか。テモテへの手紙第二4章でパウロは、マルコを役に立つ者として書き記しているのです。今週のみことばとして紹介しました。
15章以降におけるバルナバとマルコがどのような働きをしたのか聖書は黙っています。しかし想像できることは、バルナバがマルコを支え、励まし、主の働きのために忍耐を持って導いたことで、マルコもまた主のご用に間に合う者へと成長したと言えます。パウロの最後の投獄の際に、しかも死の間際にマルコは傍に呼ばれます。また彼は福音書を書き記す者となったのです。このマルコの成長のためにバルナバは用いられました。
バルナバ、聖霊と信仰に満ちていた人、慰めの子、励ましの子との愛称で呼ばれたバルナバ、私たちもバルナバの信仰姿勢に倣いましょう。そして教会の慰めとなり、励ましとなり、埋もれてしまうような人を立たせ、主のご用に間に合う者と成長させる主の働きに用いられるなら、本当に幸いだと言えます。自分を聖霊に明け渡すことがその秘訣です。

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