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2021年12月5日 礼拝「再臨を待つ教会」1コリント11:17~34

  • hikaruumichurch
  • 2021年12月5日
  • 読了時間: 9分

 主イエスの人としての誕生を記念するクリスマスに備える期間、アドベント第二週になりました。アドベントとは到来を意味します。神であられるお方、神の御子が、神のあり方を捨てて、人となってこの地上に来られた日、私たち罪人に罪の赦しを与えるために、十字架で死ぬために、人として誕生された日、その初臨、クリスマスを記念する日を迎える心備えをします。主イエスの人としての誕生を思い、感謝を新たにし、自分がどれほどの愛で愛されているのかを確認して、クリスマスを迎えます。また私たちは、最終的な公正なさばきをするために、栄光の王として再び来られる主イエスを待つのです。


 神の御子が救い主として来られるというメシヤ預言は、旧約聖書で事細かになされていました。代表的な預言では、救い主はベツレヘムで生まれること、ひとりの処女から生まれること、苦難を受けるために生まれること、その他様々な予告がされていて、その予告の通りに、神の御子は人として、ベツレヘムでマリアから生まれ、人々に神の国を伝え、神の愛を示し、様々なしるしをもって、ご自分が神であると証言し、十字架で処刑され、三日目に死者の中から復活されたのです。ナザレのイエスの生涯はメシヤ預言そのものでした。私たちは、クリスマスを迎える度に、神の約束は、時が来れば、その通りに実現すると再確認するのです。


 その同じ確かさで、主イエスの再臨の予告も、時が来れば必ず実現します。アドベントはこの予告を再確認する機会でもあるのです。クリスマスを毎年記念する私たちは、主イエスの再臨を待っていることをも確認します。今日キリスト信仰者である私たちは、キリストのからだである神の教会を構成するお互いであることを確認して、教会として、主イエスの再臨に備えたいのです。


 今日の聖書の箇所は、聖餐式の時に読まれています。今日も聖餐式で、23~29節を読みます。26節。ここに聖餐式を定期的に守る理由と目的があります。主イエスが再臨される日まで、主イエスの十字架の死を告げ知らせるために、聖餐式を守り続けるのです。


 23節。主イエスが、ご自分のからだである教会に対して、聖餐式を守るように命じられました。十字架で処刑される前の晩に、弟子たちに命じられたのです。そしてパウロは、主イエスから受けたこととして、コリントにある神の教会に書き送りました。


 キリストの教会が聖餐式を守り行うのは、罪の赦しと罪からの救いが私たちに差し出されるために、神の御子は十字架で死ななければならなかったことを覚えるため、そして十字架による救い、罪の赦しに与ったキリスト信仰者一人一人が、一つのからだを構成する各器官であることを証しをするためです。


 まずコリントにある神の教会では、聖餐式の実態、それがどのようになされていたかを確認します。17節。パウロは、あなたがたの集まりが益にならず、と忠告しています。キリストの教会が誕生したのは今から2000年ほど前、紀元一世紀です。当時は、週の初めの日、今の日曜日は休日ではありませんでした。初代教会のキリスト信仰者たちは、主イエスの復活を記念して、毎週、週の初めの日に集会をしていたのです。休日ではないので、各自が仕事を終え、夕方か夜に集まっていたということです。そして主の晩餐に与ることで、主イエスの十字架の死を、その割かれたからだと流された血による新しい契約を記念するために、主の聖餐を守っていました。その集まりが害になっていた、主の晩餐を食するという、教会が教会であるための根源的な営みにおいて、害になっていたのです。


 今日私たちは、教会として主の再臨を待つということを確認します。その前提としてキリストのからだである神の教会について確認したいのです。教会とは神に召し出された者の集まりです。私たちが主の救いに与ったこと、すなわち主イエスを信じ、自分の主と崇める者となったということは、言い換えるなら、主なる神が私たちを呼び集め、キリストのからだを構成する一つの器官として召し出されたということなのです。


 教会とは集まりです。だから教会は集会をします。教会は、主なる神が召し出された主イエスを信じる者の集まりです。このことをまず確認したいのです。教会が集会をするのは、集まることそれ自体が神の教会だからです。もし私たちが、集まるためには、何らかの目的が必要だと考えているなら、たとえば祈るために集まる、礼拝をささげるために集まる、福音を伝えるために集まるというように、集まる目的や意義が必要だと考えているなら、教会の集会に対して、自分なりの意義や目的を設定して、この集会は自分にとって益になるから参加しよう、あの集会は自分にとって関心がないから集まる必要はないなどと、自分で判断することになります。それは神の教会への理解を、各人が、自分勝手に歪めてしまうことになるのです。


 教会は主なる神に召し出され、集められた集まりそのものです。神が集めた集まりが教会であって、主イエスを信じたということは、キリストをかしらとするキリストのからだである神の教会の一員として召し出されたということです。だからキリスト信仰者は集まります。その集まりは、ある時は主に、主への礼拝をささげる集まりであり、ある時は主に、共に祈る集まりであり、ある時は主に、福音を広く知らせる集まりとするということです。何のために集まるのかを第一義的にする時、私たちは自分の好みとか感情、あるいは自分の都合で出欠の判断をし、どうするかを決めることになります。集まる目的を最優先に掲げてはなりません。


 キリスト信仰者は集まることそれ自体に招かれているのです。集まっていることが教会であり、礼拝を献げ、心を一つに祈り合い、福音を伝え、交わりをするということです。教会のこの本質をまず確認しましょう。私たちキリスト信仰者は、集まりそのものである神の教会に加えられました。主なる神が私たちをこの世から集め、キリストをかしらとする新しい共同体の一員とされたのです。


 コリントの教会は、その集まりが益にならないで、かえって害になっていました。教会が何であるのかを理解しない人々が、教会を教会たらしめている最も大切な聖餐をわきまえずに集まっていたことが原因です。その結果、教会の集まりが害を及ぼすものになっていたのです。20~21節。コリントのキリスト信仰者たちは、食事を持ち寄って夕食を共にする中で、主の晩餐に与かっていたのですが、いつしか共に主の晩餐に与かるという意識は薄れ、ただ夕食を教会で取るということに変わっていたのです。


 悲しい実態が記されています。自分のことしか考えない者たちは、自分の食欲を満たして気分をよくしていて、貧しい者は空腹のまま取り残され、教会に集まることで、さらに惨めさと疎外感を味わうことになっていたのです。主の晩餐、聖餐に与かるということが何を意味するのか、一つからだであるというあり方をどう具現化するのか、コリントの教会では理解が乏しかったし、他者への配慮という愛に欠けていました。


 10章16~17節。聖餐式の杯は酔うためにあるのではありません。キリストの血に与かるためのものです。十字架で流された主イエスの血は、罪が赦され、神の子どもとされる新しい契約の血です。それに与かるための祝福の杯です。パンを食べるのは空腹を満たすためではありません。それはキリストのからだに与かるためです。パンを共に食することで一つのからだ、キリストのからだの一員であることを意識し、私たちが一つのからだであることを自覚するのです。どれほど大人数になったとしても、キリスト信仰者たちは一つのからだであることを確認し合うことに、聖餐式の意味、主の晩餐に与かる意義があるのです。だから当初は、食物をも分け合うための愛餐をしていたのです。


 11章22節。パウロは神の教会を軽んじてはならないと叱責しています。神の教会を軽んじることは、そのままかしらであるキリストを軽んじることであり、主なる神を軽んじることを意味します。教会の中の強い部分は弱い部分の助けとなり、教会の中の豊かな部分は貧しい部分を補うのです。自分に与えられているものは、自分を喜ばせたり、自分の欲求を満足させるためにではなく、教会全体の益のために用いるために与えられたということです。キリストのからだという観点で神の教会を見、お互いを見る、そのからだの一器官とされたという意識で自分を自覚し、教会の営みを考える姿勢を身につける必要があります。キリスト信仰者はそのような者たちとして、キリストのからだである神の教会に加えられているのです。自分を喜ばせるのではなく、他者を喜ばせる。自分の快適さを追い求めるのではなく、教会全体の益を考えて行動するということです。


 24~25節。主イエスのことばの紹介です。主イエスが、わたしを覚えなさいと命じています。私たちは聖餐式でパンを食べ、杯を飲むことで、主イエスご自身を覚えるのです。教会はキリストのからだであることを認識し、自分はキリストのからだの一つの器官であって、他のキリスト者と共に一つのからだを構成している事実を自覚するのです。聖餐に与るのは、自分の罪のために十字架につけられたキリストを覚えるためですが、それと共に、キリストを信じることは神の教会に属する者であることを覚えるためです。聖餐に与るのは、自分に罪の赦しが与えられ、その赦しは完全であることを覚えると共に、共に聖餐に与る他のキリスト信仰者たちと、一つのからだを構成している事実を確認するためです。聖餐に与るのは、キリストの十字架の死によって、自分は新しいいのちに生きる者とされたということを自覚すると共に、自分はキリストのからだという新しい共同体の一員とされたという事実を意識しつつ、そのからだを生きるためなのです。


 27節。重大な警告があります。ふさわしくないというのは、赦されていない、悔い改めていない罪を持ったままということはもちろんですが、キリストのからだに属していることを自覚しないで、一つのからだであるという事実を軽視することを意味しています。神の教会を軽んじて、自分さえ良ければという思いのまま、主の聖餐に臨むとするなら、それはキリストのからだと血に対して罪を犯すことになると警告されたのです。


 だから28節。ひとりひとりが自分を吟味します。自分はキリストのからだとしての神の教会を正しく理解し、教会を生きようとしているだろうか。一つからだであるという事実を自覚しているだろうか。自分はキリストのからだを構成する一器官であると認識して、神の教会を誠実に生きているだろうか。神の教会に加えられている他のキリスト信仰者たちと互いに支え合い、励まし合い、生かし合い、仕え合っているだろうか。集まることそれ自体を喜びとし、集まることを追い求めているだろうか。自分が出席していない集会に関心を持ち、その祝福のために祈っているだろうか。私たちはいろいろな点について自分を吟味したいのです。自分を教会の外に置いて考えるのではなく、自分は教会そのものであるという事実を確認し、自覚して聖餐に与かることが大事です。


 26節。教会はキリストのからだです。この教会に自分は組み入れられています。そして教会は、聖餐式を行うことで、かしらであるキリストの再臨を待ち望むのです。キリスト信仰者個々人としてではなく、キリストのからだである神の教会として、一つのからだであることを意識して聖餐式を行い、そのたびに、十字架の福音を告げ知らせ、主の再臨を待ち望むということです。神の教会として主の再臨に備えていくのです。




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