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2021年12月19日 礼拝「罪を除くための受肉」ヘブル10:1~10

  • hikaruumichurch
  • 2021年12月19日
  • 読了時間: 9分

 クリスマスおめでとうございます。今年も皆さまと、クリスマスを記念する礼拝を献げることができ、とても嬉しく思っています。クリスマスは神の御子が人として生まれたことを記念するために設けられた日ですが、主イエス・キリストが、何月何日に生まれたのかについて、聖書は沈黙しています。


 12月25日をクリスマスと定めたのは後代の人々です。今私たちの周りに溢れているクリスマスの諸関連も皆、後代の人々が考え、作り出したものです。そしてそれは、人々がクリスマスを喜び、感謝するために、その日を記念するために始めたことであり、その思いは純粋であったと言えます。それが一般化して行くにつれて、真のクリスマスとは無関係に広がって、現在に至ります。この日本においても、多くの人々はクリスマスの真の意味を知らないで、特別な日として過ごしていますが、それはそれで良いと思っています。その人々の中には、クリスマスの出来事をきっかけにして、自分の救い主の誕生を知り、主イエスを信じることになる人もいるからです。


 私たちも毎年、12月25日をクリスマスとし、この時期にクリスマスを喜び、祝い、感謝しています。私たちにとって大切なことは、神の御子は何日に生まれたかではなく、なぜ神のあり方を捨てて、人として生まれてくださったかという事実を知ることです。つまり私たちを罪から救うため、私たちに罪の赦しを備えるために、十字架で身代わりの処罰を受けるために、死ぬために生まれたのです。その誕生を心から喜び、感謝するために、私たちは毎年クリスマスを記念し、過ごしています。ユダヤ歴では、一日の始まりは日暮れからです。つまり24日の夜が主イエスの誕生を記念する日となります。私たちがキャンドルライトサービス、燭火礼拝を24日の夜に行うのは、そのためです。


 さて、今日私たちは、キリストご自身がクリスマスについて言及している、とてもめずらしい聖書箇所を開いています。ここには羊飼いも、飼い葉桶も、御使いも、ヨセフとマリヤも出てきません。東の国の博士たちもいません。私たちが慣れ親しんでいるクリスマスストーリーとは無縁の記述がなされています。


 クリスマスは、神であられるお方が人となって生まれたことを記念する日です。霊の存在であるお方が、肉体を取られたこと、これを受肉と言いますが、そのことを覚えるためにクリスマスはあります。なぜ、神であるお方は人となられたのか。なぜ、霊の存在である神は、神のあり方を捨てて、肉体を取られたのか。その理由が述べられています。


 初代教会の時代には、キリスト教と称しながらも、その実はキリストを否定する教えがいろいろ起こっていました。新約聖書の手紙を読むと、様々な間違った教えを知ることができ、初代教会がどのように、その間違った教えを退けてきたかを知ることができます。ヘブル人への手紙の著者も同じです。あのナザレのイエス、十字架で処刑されたイエスこそが神の御子であり、神ご自身なのであって、このお方以外に救い主はいないのだと論証するのです。主イエスの十字架の死と復活を信じる以外には、罪の赦しも、罪からの救いもないことを論証するために、この手紙は書かれました。その中に、今日私たちが開いている箇所があります。旧約聖書のメシヤ預言の一つを引用して、キリストご自身のことばとして、神の御子はなぜ肉を取られたか、が論じられています。


 1節。神の律法による救いの不完全さを取り上げます。律法を行うことによって与えられる罪の赦しと、主イエスを信じる信仰によって与えられる罪の赦しを対比していくのです。主なる神がモーセを通して与えた律法には、罪人である私たちが聖なる神に近づくための規定があります。神は完全に聖で、完全に正しい方であり、汚れはどんなに小さくても、それを拒絶されるお方、罪はどれほど微細であっても、それを処罰されるお方です。この、完全に聖であり、完全に義である神の御前に、罪人が受け入れられるための規定として律法は定められました。聖であり、義である神の御前に出るために、そして受け入れられるために、無実の動物を身代わりに処罰するのです。罪の赦しと、汚れのきよめをいただことで、罪人は、神の御前に出ることが許されるということです。


 律法、特にいけにえについての規定を見ると、その細かさに閉口したくなります。神に受け入れられるいけにえとはどのようなものか、旧約聖書のレビ記にその規定が事細かに定められています。レビ記の最初の部分に5種類のささげ物、いけにえが定められています。どの動物をどのように献げるのかの規定であり、その通りにささげなければ、神に受け入れられることはありません。それは神の聖と神の義の現れであり、罪人である私たちが神に受け入れられるためには、神の求めに合わせる必要があるということです。


 今私たちは、そのようないけにえを何も献げることなく、主なる神の御前に出、礼拝を 献げています。これは、神の御子、イエス・キリストがいけにえとなって、私たちの罪の贖いとなられたので、今私たちは、主イエスを信じる信仰によって、御子イエスの血を携えて神の御前に出ることが許されているからです。これがどれほど幸いであるか、レビ記の規定のとおりに行わなければ、主なる神の御前に出られない、礼拝を献げることはできないと確認すれば分かります。レビ記の最初の何章かだけでも読んでください。


 しかし1節。律法は、神に近づく人々を完全にはすることができませんでした。なぜ動物をいけにえとしてささげることでは、完全に、罪の赦しと汚れのきよめができないのでしょう。これが律法の限界です。律法は文字であって、律法を行う主体は人間だからです。人間が律法を行う主体なので、神の律法の規定を人間の基準に引き下げるのです。神の崇高な基準を前にして、それを行うことができない自分の弱さ、その基準に間に合わない自分の罪を正直に認めて、だからこそ、それができるようにと主なる神に助けを求める者は、神の基準に近づくように助けられます。しかし自分の弱さや罪を正直に認めない者は、自分のできるレベルにまで神の基準を引き下げ、他の人と比べて自分の方が神の基準に達していると、実際には神に受け入れられていないのに、自分は神の基準を満たしていると自負するのです。こうして人は、神の基準を人間のレベルにまで引き下げたのです。


 だから同じ律法の規定を前にして、真に神に近づく人もいれば、神から遠ざかる人もいます。ここに律法の限界があります。信仰によって神に近づこうとする人を、律法は神に近づけていきます。しかし行いによって神に近づこうとする人を、律法は神から遠ざけていくのです。救いは行いではなく、信仰によって与えられるのは、旧約聖書も同じです。


 2~4節。無実の動物を罪のいけにえとして献げることは、具体的な個々の罪を赦し、神に近づくことを得させます。しかし根源的な罪を赦すには不十分なのです。一人の人間の価値は、どれほど多くの動物によっても肩代わりできないほど高価だからです。人間の価値と動物の価値を比較すること自体不適切です。


 身代わりを考えるときに、人質とその身代わりを申し出る者とを考えるとわかるやすいでしょうか。石垣空港でハイジャック事件が起きたとします。乗員乗客を人質にし、犯人が要求を始めています。犯人はその要求を通すために人質を取って交渉するのです。ここで私が出かけて行って、身代わりになるから全員を解放してほしいと申し出たとしても、全く相手にされないでしょう。それは、無名で、肩書きの全くない私では、人質全員と交換するほどの価値を認めないからです。中山石垣市長が身代わりの申し出たなら、犯人は検討するかもしれません。しかし結局は、交渉に応じないと思います。


 ここで岸田文雄さんが身代わりを申し出たら、犯人は喜んで全員を解放し、一人を人質にすることを選びます。岸田文雄さんという人間にではなく、現職の総理大臣という立場に大きな価値があるからです。菅義偉さんや安倍晋三さんには総理大臣という肩書きがなくなったので、価値は低くなりました。現職の総理大臣という肩書きが、一人で十分すぎるほどの価値があるのです。罪の身代わりも同じです。動物の血は人の罪を除くことはできません。人の罪を除くだけの価値が動物にはないからです。いけにえはただ、人が自分の罪を認めて、神に罪の赦しを請うことができるようにと、神が備えてくださった規定であって、罪の赦しを求めていけにえを献げる時、人はその信仰によって、具体的な罪の赦しが与えられ、神に受け入れられます。これはすばらしい恵みですが、それだけです。


 5~7節。キリストがこの世界に来られたのは、全人類に罪の赦しを備えるためです。神の御子が、神ご自身が身代わりとなり、全人類の、全時代の、あらゆる罪の処罰を受けるのですから、十分過ぎるくらい十分な身代わりとなるのです。被造物である全人類を集めても、創造者である神には及びません。神と人間との本質的な価値の違いです。神の御子は、人の身代わりとなるために、人間となるために肉体を取られたのです。


 それも、人が体験するあらゆることを体験するためにです。母の胎内に宿り、赤子として生まれ、両親の保護を受け、幼児期を過ごし、両親の指導を受けながら成長し、成人して、約33年の地上生涯を過ごしました。すべての点で私たちと同じく試みを受け、数々の痛みも嘆きも味わい、誘惑されても罪を犯しませんでした。キリストは罪を犯したことがなく、その口に欺きもなかった、とはペテロの証言です。3年間弟子として、寝食を共にして訓練を受ける中で、一挙手一投足を間近に見ていた者の証言です。


 主イエスは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。神の御前に罪のない者と認められたので、身代わりとなれたのです。私たちは、自分の犯した罪の処罰を受けるべきなのに、主イエスが身代わりとなられたので、私たちに罪の赦しが備えられたのです。主イエスの十字架の身代わりを自分のためだと信じることで、人は罪の赦しを受け取ることができるのです。


 クリスマスは神が人となられたことを記念する日です。霊であられるお方が肉体を取られたことを記念する日です。まずこの事実に感謝しましょう。というのは、私たちは様々な罪を犯しているからです。大小の違い、程度の差があって、私はあの人よりもましだ、この人よりも良いと自己正当化しているかも知れません。しかし罪を犯してきました。その罪に神の審きを受けるのです。皆さまは自分に、どのような刑罰がふさわしいと思うでしょうか。その私たちに罪の赦しを与え、罪から解放するために、十字架で処罰されるために、死ぬために、救い主である神が人となって生まれました。これがクリスマスです。


 愛する皆さん。クリスマスを喜び、感謝しましょう。クリスマスに与えられたすばらしい恵みから目を離すことなく、その恵みを自分のものとするのです。神の御子は、あなたの罪を除くため、あなたに罪の赦しを備えるために、人として生まれました。十字架で死ぬために肉体を取られた、受肉されたのです。ただあなたを愛するゆえに、あなたを滅びから救いだし、いのちに生かすために、死ぬために生まれたのです。


 クリスマスは、神が私を愛してくださっていることを確認する日、いのちを捨てるほどの愛で、主イエスに愛されていることを確認する日です。心から感謝し、喜び、主イエスの愛を自分のものとして受け取るのです。罪を除くために、神の御子は受肉されました。




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