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2021年12月12日 礼拝「主の来臨の定め」ガラテヤ 4:4

  • hikaruumichurch
  • 2021年12月12日
  • 読了時間: 8分

 クリスマスを待ち望むアドベントの期間も3週目となりました。来週は、主イエス・キリストの誕生を記念し、喜び祝うクリスマス礼拝をささげます。今日私たちは、再度、主イエスの再臨について確認します。アドベントとは来る、来臨という意味です。


 クリスマスを待つアドベントの期間に、私たちは主イエスの初臨、キリストが神の約束の通りに、ユダヤのベツレヘムで、処女マリヤから生まれたことを確認しています。神の約束はその時が来れば必ず実現するという、神のことばの真実さを確認するのです。そして私たちは、主イエスの再臨、主イエスは再び来られるという約束を思い起こすのです。主イエスの再臨も、時が満ちて、その日が来ます。神のことばは、その時が来れば、必ず実現することを信じる者として、主の再臨の日を待ち望むということです。


 ガラテヤ人への手紙4章4節。ここで使徒パウロは、神の約束の確実性について言及しました。「しかし時が満ちて」と記すのです。神がご自分の御子を世に遣わす、神の定めの時が来たのです。神は預言者たちを通して、メシヤ、救い主を遣わすことを繰り返し伝えてきました。その神が定めの時が満ちて、神の御子が人として生まれました。ナザレのイエスとして地上を歩まれ、十字架で、私たちの罪に対する神の罰を受けたのです。


 旧約聖書には、救い主について、その誕生と生涯、そして死に関する数多くの預言があります。その誕生に関する、代表的な預言を確認します。救い主は処女から生まれるという預言はイザヤ書7章14節にあります。紀元前700年代の預言です。また救い主は唯一無二のひとり子、神ご自身であると預言されました。9章6~7節。


 救い主はベツレヘムに生まれるという預言はミカ書5章2節にあります。この預言もまた紀元前700年代のものです。その他に、救い主は何をするのか、人々からどう見られ、どのような扱いを受けるのか、どのように殺され、葬られるのか、しかし死んで終わりではなく、死者の中から復活することまで、数々の預言がされています。


 これらの預言はすべて、ナザレのイエスによって現実となりました。神の定めの時に、その時が満ちて、救い主は神の予告の通りに、人として生まれたのです。クリスマスはこの救い主の誕生を記念する日です。不思議なことですが、救い主を必要としていない人々も含めて、世界中でキリストの誕生を祝うことばが交わされています。本人の意識に関わりなく、全人類のための救い主の誕生を、世界中でお祝いしているということです。


 主イエス・キリストは、全人類に罪の赦しを備え、差し出すために、神の予告の通りに、 神の定めの時が満ちて、人としてこの地上に生まれ、十字架刑で殺されました。私たちは主イエスの誕生とその生涯、そして死と復活を通して、神の語られたことは必ず実現するということを再確認しています。神の約束の真実さ、そして確実さを、です。


 主イエスがもう一度来られることも神の約束です。私たちは主イエスを救い主と信じ、自分の主であると告白する者として、主イエスの再臨を待ち望む者たちです。


 ガラテヤ人への手紙4章4節。ここでの「時」は、直接的には主イエスの初臨、神の御子が処女マリヤから、人間の赤ちゃんとして生まれた「時」です。しかしこれはそのまま、主イエスの再臨にも当てはまります。つまり、時が満ちる、主イエスの再臨の定めの時が来たなら、神は主イエス・キリストを、王の王、主の主として、公正なさばき主として遣わすのです。再臨の主イエスを待ち望んでいる者としてアドベントを過ごしましょう。


 先ほど交読したマタイの福音書24章には、私たちが今見ている天も地も、全宇宙のすべてが消え去る時の定めが、主イエスによって語られています。35節。そしてその前兆としての、様々の事象についても語られたのです。3~4節。


 30~31節。その時です。その時、人の子、主イエスの再臨が約束されています。人の子は偉大な力と栄光を帯びて、天の雲のうちに来られます。大きなラッパの響きとともに、御使いたちが遣わされ、天の果てから果てまで四方から、主イエスが選んだ選びの民を集めます。彼らは喜びと主をほめたたえる叫びに満たされるのです。その歓喜の叫びの中に、自分もいると、みなさまもいるのです。確認していますか。


 30節。歓喜の叫びではなく、悲しみながら主イエスの来臨を迎える人々がいると言われます。主イエスをキリストと信じなかった者、神が備えてくださった罪の赦しと罪からの救いを拒んだ人々です。それは自分が、主なる神を自分の神、自分の主とあがめようとしなかったことに対する、公正な審きを恐れることによります。主イエスの再臨などあるはずはない、神の公正な審きなどないと、差し出されていた罪の赦しと罪からの救いを拒絶したことを後悔して、悲しむということです。


 神は主イエスの来臨の時を定め、その時が満ちて、主は再臨されます。主イエスが語られた、その前兆を確認しましょう。4~14節。戦争や戦争の噂を聞きます。すでに、世界大の戦争は2度起きました。第3次世界大戦の危機はいつもあります。民族紛争は絶えません。飢饉と地震が頻繁になっています。人々の心は冷え、無関心が広まっています。自分をキリストであると主張する者が数多く現れて、多くの人々を惑わし続けています。今や福音は、全世界に宣べ伝えられています。主イエスは、人に惑わされないように気をつけなさいと語られました。人のことばではなく、神のことばに自分を合わせることが大事です。これらの前兆によって、主の再臨は近づいています。時が満ちようとしています。この事実から目を反らせてはなりません。主イエスはいつ再臨されても良いのです。


 43~44節。再臨の主イエスを待ち望むこと、主イエスを迎える心の準備をするようにと促されているのです。再臨の時は誰にも知らされていません。盗人が押し入るように、思いがけないときに主イエスは来られます。人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている、そのような日常生活が続けられており、万物は永続するかのように思われている時に、突如として主イエスは来られるのです。


 45節から、4つのたとえで、主イエスの再臨への備えが語られています。


 45~51節。委ねられた働きを忠実に果たしながら、主人の帰りを待つのです。


 25章1~13節。絶えず心の目を覚ましていて、主イエスの再臨の時に、いつでも迎えに 出られるように備えておくことです。愚かであってはなりません。


 14~30節。自分に委ねられた賜物を、預けてくださった主人に喜んでもらいたいとの思いで、主のために活用しようとして待つということです。


 31~46節。自分の周りの、助けを必要としている人に対して、必要な助けをしながら主イエスを待つことです。その人の隣人になるとはどうすることかを考え、この世の、人々に見下され、この世の基準では存在価値がないと見なされているような人にこそ、主イエスを見るようにと勧められたのです。


 主イエスは必ず再臨されます。時が満ち、神の定めの時が来たとき、主イエスは私たちを迎えるために、そして公正な審きを行うために、再臨されるのです。私たちは主イエスがいつ来られても、喜びと感謝をもって迎えられるようにしておきましょう。主の喜びを自分の喜びとして、委ねられた賜物や働き、職務や責任を誠実に、忠実に果たすのです。神の愛に整えられ、しもべとして愛する主にお仕えするのです。霊的に眠りこけてしまうのではなく、霊的に目を覚ましていて、主イエスのおいでを待ち望むのです。ただ待っているのではなく、待ち望むことが大切です。待ちこがれ、慕い求めているなら、待つことに飽きてしまうことはありません。


 ガラテヤ人への手紙4章4節。主イエスは私たちの罪を赦し、私たちを罪から救うために、十字架で身代わりの処罰を受けるために、死ぬために人として生まれてくださいまし た。主イエスは、時が満ちたなら、神の定めの時が来たなら、再び来られます。


 6節。私たちは主イエスを信じたことで、神の子どもとされています。唯一まことの神を恐がるのではなく、愛する父と呼び求めています。私たちの心には、聖霊なる神が宿っ ておられるので、神をアバ、お父ちゃん、父よ、と親しく呼ぶ者となっているのです。


 8節。私たちもまことの神を知らなかった時期、信じようとしない時期がありました。しかし神の恵みによって、今は主イエスを信じ、まことの神を自分の神とし、真理に生きています。まことの神と共に生きるときに、私たちは真の自由を得ます。真理、主イエスが私たちを自由にしたからです。嘘、偽りの神々の束縛から解放されたのです。


 9節。ただし私たちも、主イエスを信じる前の状態に戻る危険はあります。まことの神と神のことばに従って生きる幸いを見失って、目に見える状況に惑わされ、左右され、真理ではない、嘘、偽りの生き方に、再び束縛される危険です。そのような危険に引き込まれないために、再臨の主を待ち望むことは重要です。神のことばはその時が来れば必ず実現するということを忘れてはなりません。


 クリスマスを私の救い主の誕生として記念し、迎えている私たちは、主イエスの再臨の約束もまた、必ず実現するということを覚えさせられます。主イエスの再臨が先か、私がこの世を去るのが先か、どちらが先になったとしても、喜びと感謝に満たされて、主イエスとお会いする私たちであること、その幸いと光栄とを覚えておきたいのです。悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて、天の雲のうちに来るのを見る、ということに、決してならないようにしたいのです。主の来臨は定まっています。その時を待ち望みつつ、与えられた信仰生活、地上生涯を主にあって歩むだけです。




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