2021年11月7日礼拝「求める者は与えられる」マタイ7:7~12
- hikaruumichurch
- 2021年11月7日
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父なる神の、また主イエスの、私たちへの招きは、単純、明快です。今日の箇所では、 求めなさいと招きます。その招きに応じるなら、与えられると約束するのです。私たちの側が、主なる神のことばや招きに、素直に応じるか、応じないかで、主の約束の通りになるか、ならないかが決まるということです。とするなら、私たちは、自分で複雑にしてしまうのではなく、素直に、主なる神の招きに応じることが大切だということです。
今日私たちは、求めなさい、求め続けなさいと招かれます。父なる神に求めるなら、父なる神はお与えになると約束されます。7節。求めなさい、捜しなさい、叩きなさいは、 すべて継続を意味することばです。求め続けなさい、捜し続けなさい、叩き続けなさいと招かれているのです。執拗に求め続けるように、答えが得られるまで、神のみこころが明確になるまで求め続けるようにと招かれているのです。求め続けることが大事です。
求めなさいと招かれるとき、私たちは祈り求めることであると考えます。との通りであります。父なる神に祈ること、祈り続けることはとても大切です。そして祈り続けることは、 じっと座って祈り込むことと考えます。このような祈りは大切です。私たちは日々の生活の中で、父なる神への祈りの時間を持っています。感謝です。大切にしましょう。
では捜すとはどうでしょうか。捜しなさい、捜し続けなさいと招かれます。捜すとは、じっと座ってすることではなく、動き回ってすることです。行動が伴います。じっと座っ ていては捜せません。祈り求めつつ、行動を伴わせることも必要です。
私が就職先を求めた時、45年ほど前になりますが、当時は大学4年の10月1日が会社 訪問解禁日でした。情報処理関係の職を考えて就職活動をしました。父なる神に、私にふさわしい職場を与えてくださいと祈り求めました。じっと座って祈り込んで、それでふさわしい職場が与えられることはあり得ません。勿論祈り求めます。と同時に、私がなすべき何らかの行動を起こさないなら、それは怠け者となります。
私は主なる神に祈り求めつつ、情報処理関係の職場の情報を集め、自分にふさわしいと思える会社をピックアップして、東京の杉並区にある知り合いの教会に宿をお願いして、 一週間ほどかけて、それらの会社を訪問し、就職試験を受けたのです。結果として、私が自分で選んで訪問した会社はみな、私を不採用にしました。全滅でした。
しかし一つの訪問先の会社で、見知らぬ学生が声をかけてくれるという、不思議な方法で導かれて、ある会社を、急遽訪問し、試験を受けたのです。その会社が私を採用し、NEC 府中事業場に配属されたことがきっかけで、その15年後に、東京府中市での開拓伝道へと導かれていくのですから、将来のことは、主なる神の御手の中にあるということしか言えません。このことで分かることは、私たちはただ祈り求めていれば良いということではな く、祈り求めつつ、捜し廻ることも必要なことが多々あるのだということです。
捜しても得られなければ、叩き続けることも必要となります。そして叩き続けるようにと招かれています。これこそ執拗に、しつこく求め続ける姿です。先ほど交読した聖書箇所では、真夜中に友人の家に行って、パンを3つ貸してもらうというたとえ話がありました。夜中に、その人の家に、友人が訪ねてきた話です。当時は、徒歩で旅をするので、日中の暑い時刻を避けて移動するため、夜中に到着することもあったようです。しかも当時は電話などで連絡する手段もないのです。彼の家には旅人をもてなすための食料がなかったので、近くの友人の家に借りに行くことにしました。
その友人は、もう寝てしまったし、こどもたちも寝入っている。起き上がってパンを出してやるのは嫌だと断りました。当然です。そこで主イエスは語るのです。この人は、友人だからという理由ではパンをあげることはしなくても、頼み続けるなら、そのしつこさのゆえに必要なものを何でもあげると。この真夜中の友人のように、私たちは父なる神に、うるさがられるまで、しつこく求め続けることが大事なのだと招かれているのです。
主イエスは、ご自分を信じる者たちに、求め続けるようにと招きました。求めなさい。 求め続けなさい。手に入れるまで、諦めないで求め続けなさい。執拗に求め続けて良いの だと招いておられるのです。求める相手は、天におられる私たちの父です。私たちが祈り求める相手は明示されています。生けるまことの神が、私たちの父であり、私たちは自分の親に対するように、求めて良いのです。私たちは本当に幸いです。
9~10節。人間の父親は、自己中心という罪の性質があるので、悪い者と言われていても、よほどいじけているか、虫の居所が悪かったりしなければ、自分の子どもに意地悪を することはしません。自分のこどもが、お腹が空いたと帰ってきた時に石をあげたり、魚が食べたいと、好物をほしがっているのに、さそりをあげるような、あえて嫌があるものを与えることはしません。そのような酷い親がいたとしても、それは特異な例です。
11節。このように私たちは、罪の性質のゆえに悪い者であったとしても、自分の子どもの求めを邪険に扱うことをしません。私たちでさえそうなのです。父なる神はなおさら、 私たちのような悪い者ではなく、いつも自分の子どもたちに、良いもの、最良のものを与えようとなさるお方です。「あなたがたは、悪い者ではあっても」と言われている「あなたがた」に、父なる神は含まれません。父なる神、天におられる私たちの父は、悪いところの全くない、愛に満ちたお方です。そのお方が、求める者に対して、良いものを下さるお方であると紹介されていることを感謝しつつ覚えましょう。
主イエスは、私たちに祈り求めること、父なる神に祈るようにと命じておられます。天におられる父は良いものを下さるお方として待っておられる。だからただ一度、祈ったらそれで終わりにするのではなく、祈り続けるように、祈り求めたことへの回答が得られるまで、執拗に祈り続けるようにと招くのです。求め続ける者は、必ず与えられます。捜し続ける者は、必ず見つけます。たたき続ける者は、必ず開かれます。
私たちが祈り求める相手は、私たちを愛しておられる父なる神です。この事実をもう一 確認しておきましょう。父なる神は良いものを下さるお方なので、主イエスは「求める者 たちに良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と語って、だから求め続け なさいと命じたのです。私たちには、与えられるまで求め続ける執拗さが必要です。
さて、では主イエスを信じる私たちが祈り求める時、父なる神はすべて求めたものを与 えてくださるでしょうか。皆様はどう思いますか。答えは、その通りです、であり、残念 ながらそうではありません、でもあります。
まず、その通りです、から見ましょう。ヨハネ16章23節。あなたがたが父に求めることは何でもとあります。何でもです。父なる神は、私たちが求めたものを、主イエスの名によって与えてくださいます。これが主イエスのなされた約束です。父なる神は、私たちに与えようとして、私たちが求めるのを待っておられると言うのです。
ヨハネ15章7節。何でも欲しいものを求めることができ、それは与えられます。ただし無条件ではありません。何を求めても良いのですが、その通りに答えられる条件が定められています。その条件とは、私たちが主イエスにとどまり、主のことばが私たちにとどまっていることです。父なる神と神の子どもとされた私たちキリスト信仰者との関係において、基本的に、求めるものは何でも与えられるのです。
私たちが求めても与えられない場合については、ヤコブ4章3節にもあります。私たち が自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求める時は得られません。これは当然です。 父なる神は私たちを愛しておられ、良いものを与えようとしておられます。だから、私たちの求めをすべてそのまま与えることはなさいません。もし私たちが、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で願うなら、それを与えることは害になるからです。
私たち人間の親子関係でも同じでしょう。親は自分の子どもを愛しています。子どもの 求めにはできるだけ答えてあげたいと思っています。しかし子どもの要求をすべて、その まま満たすことはしません。それを与えることが、悪い結果を生むと判断する場合には与 えません。子どもがどんなにだだをこねても、泣きわめいたとしても、それを与えないで 諭すのです。愛しているからです。子どもには良いものを与えたいからです。それが良いものか、悪いものかを判断するのは、子どもではなくて親です。親は良いと判断するもの を、こどもに与えるのです。子どもの言いなりになってはなりません。甘やかすことは、 健全な成長を邪魔し、歪んだ人格形成を及ぼすことになります。不完全であっても、子ど もを健全に育てようとして、親はできるだけ注意し、また努力するのです。
マタイ7章11節。ここで主イエスは何と語られたでしょうか。父なる神が与えるものは 何でしょうか。そうです。良いものです。良いものなのです。良いものを与えてくださると語られました。私たちが祈り求め続ける時、父なる神は良いものを下さるのです。天の父は、私たち人間とは違って間違いのないお方です。完全なお方です。正しさにおいて、聖さにおいて、完全です。すべてを御存じであり、すべてをなすことのできる、全知全能の神です。このお方が、私たちを愛しておられ、私たち以上に私たちのことを御存じで、私たちにとっての良いものを知っておられ、それを与えようとしておられるのです。
主イエスが私たちを、求め続けることへと招いておられます。ひたすら祈り求め続けることが大事です。執拗に、しつこく求め続けて、父なる神が下さる良いものを手にするこ とが大事なのです。私たちは途中で諦めて、自分なりの結論を出して、自分の肉の欲求を満たすものを手にしてはなりません。祈り求め続けるには忍耐が必要です。自分の願いとは違う結果になることもあります。しかし大切なことは、私たちの願いの通りになることではなく、父なる神のみこころを知ることです。そのために祈り続けるのです。
ルカの福音書では、父なる神は、求める者たちに、聖霊を下さると約束されました。聖 霊が私たちに、父なる神のみこころを知らせてくださるのです。私たちが祈り求め続ける 時、祈りつつ捜し回り、ある時にはしつこく求め続け、うるさがられるほどに叩き続ける中で、私たちの心は父なる神に近づけられ、結びつけられていきます。この霊的な成長を遂げるために、キリスト信仰者として霊的な成熟へと整えられるために、主イエスは求め続けなさいと命じられました。求め続けさせる意図が、ここにあります。
私たちは、父なる神に求め続けましょう。遠慮せず、しつこく求めるようにと招かれています。そして父なる神は、求める者に良いものをくださいます。祈り求めたとおりに答えられなくても、別の、もっと良いものを下さるということです。だから私たちは、父なる神に、より良いものを求めるべきです。
6章33節。第一に求めるべきものが記されています。まず神の国と神の義を求める。神 に支配されること、父なる神のご支配を生きることを求め、神が義とされること、父なる神の基準を生きることを求めていくなら、これらのものすべても与えられるのです。

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