2021年11月28日 礼拝「背きの罪と赦しの計画」創世記 3:1~15
- hikaruumichurch
- 2021年11月28日
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今年も、今日からアドベントの期間、待降節に入ります。アドベントとは、主イエスの人としての誕生を記念するクリスマスの日までの4回の日曜日の期間を指し、今日がその第一週目となります。アドベントの期間に、主イエス・キリストがなぜこの地上に来られたのか、神であるお方が人とならなければならなかったのは何故か、イエス・キリストと私との関係はどうであることが望ましいのか、などなどを思い巡らしながら、改めてクリスマスの意味を確認し、感謝を新たにしてクリスマスの日を迎えるということです。
クリスマスを、ただ楽しむための、一つの行事として過ごすのではなく、神の私たちに対する愛が、このクリスマスに如実に現わされたことを深く覚えながら、感謝を新たにするために、また自分の主として神を崇め、このすばらしい喜びの知らせを、多くの人々に知らせる時として過ごすということです。
アドベントとは到来、来臨の意です。アドベントの期間、確かに神の御子は、預言されていたとおり、人として来られたことを確認し、同時に、主イエスはもう一度来られると約束して、天に上って行かれたことを覚え、主イエスの再臨の約束もまた実現することを確認して、主イエスの再臨を待ち望み、お迎えする心備えをする時でもあるのです。
聖書の記述は、天地創造から始まります。はじめに神が天と地を創造した。これが聖書の書き出しです。創造者である神は、私たちの宇宙が存在する前におられ、天地宇宙、そのすべてを創造されました。その創造のクライマックスとして、私たち人間を、神のかたちとして、神に似るように、特別な存在として、最高傑作品として、霊的な存在として創造されました。そして神は、創造したすべてをご覧になり、それは非常に良かったと満足されのです。これが創世記1章の記述です。
最初の人アダムとその妻エバは、すべてが整えられた、何不自由のない、真に快適な世界で、充実した生活を味わっていました。お互いを信頼し合い、助け合い、労り合い、生かし合う関係は、神である主を自分の主と崇め、神に聞いて生きることを喜ぶ信仰姿勢を基盤にして、確かなものとされていったのです。これが創世記2章の記述です。
そのような理想的で、何不自由のない環境は、ふたりにとっては当たり前でした。ただし、どんなに理想的ですばらしい環境に置かれたとしても、感謝を新たにし、その恵みを確認し直さなければ、次第にその恵みや祝福に慣れていきます。そうして恵みが恵みとして感じられなくなり、感謝と喜びは薄れて行くのです。
私たちも気をつけましょう。今与えられている、神である主からの祝福や恵み、滅びからいのちに移され、永遠を、神の子どもとして生きる者とされたことの絶大な恵みと光栄とを、繰り返し確認し、感謝を新たにするのでなければ、私たちは神の恵みに慣れ、恵みが当たり前であるかのような錯覚に陥り、感謝や喜びは薄れていくのです。
最初の世界になかったのは罪です。神である主が定められた基準を生きる、このことを神の愛への応答、神への信頼の表明として行っていたふたりは、神に背く思いなど起こらなかったはずです。キリスト信仰者である私たちは、神に聞いて生きることが最も幸いな生き方であると同意しています。しかし神である主のことばを退けて、神に背く道を選び取ってしまうこともあります。私たちは神を拒絶すること、神のことばに背くことが罪であると知っているのに、これくらいは良いだろうと行うこともあります。
アダムとエバに、神への不信が植え付けられるまでは、主を拒むこと、神が定めた基準に背くという発想はありませんでした。神の自分への愛を信じきっていたからです。
3章が、罪の始まりとその後の悲惨の記録です。1節。惑わす者が蛇の姿で近づいてきました。この蛇はヨハネの黙示録で、悪魔、サタンであると解説されています。惑わす者は女に語りかけます。惑わす者の常套手段は、まず神への信頼を失わせることです。これまでは、神である主に不信を抱いたことはなかったエバに、本当に神を信頼して良いのかと疑念を抱かせたのです。1節。神のことばを歪めました。
本当に言われたのですかと問いかけます。そんなことをいうなんてとても信じられないですよ、ずいぶんとひどい命令を下すものですねと、神への不信を抱かせたのです。その巧みなことばによって、女の心に神への不信の芽が生じました。2~3節。蛇への応答に神への全幅の信頼が崩されたことを見ます。2章16~17節の神のことばと、3章2~3節の女のことばの違いを確認しましょう。
エバは神への全幅の信頼を崩されました。神は自分たちを束縛しているのかもしれないというかすかな疑念が、ただ一つの禁止命令に過剰に反応させます。神は大盤振る舞いの神で、祝福に満ちたお方であるとの感謝はありません。思いのまま食べて良いとは神のことばです。しかし女は、園にある木の実を食べて良いのですと答えました。神はどれほどの祝福を与え、どれほどの恵みを与えておられるのか、その感謝は薄れていました。
もしエバが、神の恵みと祝福の大きさを、改めて味わい直し、感謝を新たにしたなら、いいえ、神である主は、大盤振る舞いの神ですよ。園にある木の実はどれでも、思いのまま食べて良いのです。ただ一つだけ、善悪の知識の木だけは禁止されているけれど、溢れる祝福と恵みに比べたなら、ほんとうに些細なことです、と答えたことでしょう。
しかしエバは、神の禁止命令を過剰に取り上げます。それに触れてもいけないと付け加えました。しかも善悪の知識の木ではなく、園の中央にある木とぼやかしました。園の中央にはいのちの木もあって、それは思いのまま食べて良いのです。さらに、善悪の知識の木の実を食べる時、必ず死ぬという明確な警告を、死ぬといけないからと、ぼやかしたのです。ここに、愛と祝福に満ちた神であることを疑い始めた者の姿を見るのです。
6節。アダムは一部始終を、ただ眺めていたことが分かります。だから聖書は、エバではなく、アダムの罪として糾弾するのです。なぜアダムが沈黙していたのか、その思いは分かりません。ただ、アダムもまた、神である主を自分の主とはしなくなっていたということだけは分かります。人にずるさがあるとすれば、それはアダムに倣っているのです。
神への信頼が薄れ、神のことばを生きることを喜びとしなくなったエバに対して、蛇は神のことばを全否定します。神のことばではなく、自分の欲求に生きて良いのだと誘惑したのです。4~5節。決して死にませんと神のことばを完全に否定して、誘惑しました。
なぜ神は禁止命令を授けたのか、その理由を捏造します。神はあなたがたを奴隷として従わせるために、自分で判断することを禁じたのだ。自分で判断して良いのに、それを食べると、目が開かれて、神のようになるから、そうさせないために禁じたのだと。もし本当にサタンの言う通りなら、神は善悪の知識の木など造らなかったでしょう。その木の実に魔力があって、人が神のようになるという、そのような木を造る意味はないからです。
人は元々神のような存在として造られました。神のかたちとして、神に似るように造られているので、神に聞いて生きることが善であると、自分で判断していたのです。神に愛されていることを喜び、神に委ねられた責任を、神を愛する者として喜んで果たし、神を自分の主と崇めて、神の基準を生きることを喜びとして、自分で選び取っていたのです。
しかしアダムとエバは、神のことばを退けることを選びました。これが罪です。神を自分の主とするのではなく、自分を主とすること、神のことばと自分の思いが異なる時に、神のことばを退けて、自分の思いを選び取ることが罪なのです。これが目が開かれることの意味です。彼らは、神を退け、自分の欲求を優先する生き方を選び取ったのです。
彼らが目が開かれ、自分の判断を優先する者となった後の最初の変化が7節です。自分を恥ずかしいと思うようになったのです。神の最高傑作品として自分は造られているのに、あなたは宝だよ、最高傑作品だと言われても、そんなはずはないと自分で自分を否定します。神のことばを生きていた時、彼らは自分たちが裸であることを知っていて、ありのままの自分を恥ずかしいとは思っていませんでした。人との違い、その優劣も、それが良いのだと受け入れていたからです。互いの優劣は、互いに助け合うためであり、補い合い、生かし合うためのものであって、すべてが良いとは神の基準です。この神の基準を生きるなら、私たちは自分を、そしてお互いを、罪を除いて、すべて良いものとして受け入れるのです。
自分の判断を優先した二つ目の変化が8節です。神が、愛と祝福に満ちた、赦しの神であると思えず、罪を犯した自分は必ず罰せられると判断して、神を恐れ、隠れました。
神である主は、罪を犯した人に対して、自発的な悔い改めへと招いています。9節。何をしたのかと糾弾するのではなく、どこにいるのかと問いかけました。神から離れたままではなく、戻ってくるべきではないかと招いたのです。赦しの神はいつも赦しを備えて、自発的な悔い改めへと招いています。しかし人は神を、罰を与える存在としました。
自分の判断を優先した三つ目の変化が12節です。責任転嫁による対人関係の破壊です。自分の罪を認めない者は、人のせいにします。自分を正当化するために、人を悪者にし、責任転嫁をして、自分が罰せられないようにするのです。
アダムは一部始終を黙って見ていて、エバが何の害も受けないのを見て、自分も食べることで、神のことばを退けたのです。自分が選んで行ったのに、この女がくれたから食べたと言い訳をしました。自分は悪くない、この女が悪いのだ。そして神様、この女を私のそばに置かれたのはあなたでしょう。あなたがこの女を私のそばに置かなかったなら、私は間違わなかったと、神ご自身をも悪者にしたのです。そしてこのことばによって、エバはもはや、アダムを心底から信頼し、尊敬することはしなくなりました。
罪を犯しているのに、罪を罪として認めず、悔い改めようとしない人に、刈り取りをさせるのが14節以降です。しかし主なる神はなおも人を愛して、罪から救い出そうと、罪を赦す計画を立ててくださったのです。
15節。蛇への呪いのことばに、やがて女の子孫として救い主を遣わすこと、女の子孫は傷を負わされる、それが十字架での処刑ですが、それはかかとを打つ程の傷です。逆にその傷を受けることが、サタンへの致命傷になるという予告です。十字架刑で女の子孫は殺されたけれど、実にその死は、罪の赦しを備える身代わりの処罰であり、その死を通して、罪を赦す神の愛が明らかに示されたのです。この神の愛を感謝して受け取る者が、愛を基盤にする、神との本来あるべき関係へと立ち返らせたのです。あるべき状態に戻ることが、罪からの救いです。女の子孫の十字架刑はサタンの頭を打ち砕く、サタンの目論見を完全に打ち砕くのです。すべての人の、あらゆる罪の処罰を、女の子孫として来られる神の御子の十字架刑で終わらせ、罪人に罪の赦しを与えて、罪から救うという、神の救いのご計画は、人が罪を犯し、悔い改めなかった、その最初の時に、神の愛と一方的な恵みによって定められたのです。女の子孫の誕生は、神の御子、主イエス・キリストが処女マリアから生まれることで、実現しました。クリスマスは女の子孫の誕生の約束が実現した日です。私の、あなたの救い主が生まれた日です。感謝を新たにして、クリスマスを迎え る備えとしましょう。

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