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2021年11月14日礼拝「主を信頼しない愚かさ」1サムエル13:1〜14

  • hikaruumichurch
  • 2021年11月14日
  • 読了時間: 9分

更新日:2022年1月9日

 主なる神ご自身を信頼するのか、それとも見えるなにものかに頼るのか、私たちの信仰 が問われるのは、この点においてです。みなさまは、主なる神に信頼して歩んでいるでしょうか。それとも主を信じてはいるけれど、日々の生活においては、主以外のものに頼らざるを得ないと思っているでしょうか。自分の信仰の歩みを振り返りましょう。


 神の民とされたにもかかわらず、イスラエルは人間の王を求めました。自分たちを支配する人間の王、自分たちが仕える、見える人間の王を求めたのです。しかしこれは、自分たちのまことの王、創造者である神を退けたことなのです。しかし主なる神は、そのようなイスラエルの求めに応えられます。主なる神は王としてサウルを任命したのです。


 彼らは念願の王政を得ました。それでもイスラエルは、神の民として選ばれ、まことの神を証しし、すべての国民にまことの神の祝福を取り次ぐ働きが委ねられています。だから、王政を取り入れても、彼らの真の支配者は、主なる神ご自身でなければなりません。 このような意味で、見えるかたちは王政となっても、まことの神を神とし、まことの神に仕える神の民としての存在を変えてはいけないのです。だからサムエルは、サウルを王として立てた時、イスラエルの真の支配者は主なる神であることを宣言し、イスラエルに、神の民としての自覚を促し続けます。このことが12章に記されていますので、じっくりと読んで下さい。ここでは12章12節からを読みます。


 神の民イスラエルは、どのような形に政治形態が変わっても、主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞いて従うべきであり、主の命令に逆らってはなりません。王も民も主なる神に従う時、主の祝福に与かるのです。しかし、主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らう時、どれほど優れた社会構造を持ち、政治形態を築いたとしても、主のさばきが下されます。そして主がさばきを行われる時、誰もそれをとどめることはできません。


 私たちも、この点をしっかりと心に刻み込んでおきたいのです。私たちがどのような組織に属していても、どのような職制に置かれていても、どのような活動に従事しても、そこで、主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞いて歩むべきであり、主の命令に逆らってはな らないと、肝に銘じておくことが大事です。私たちも、自分の弱さのゆえに、目に見えるものに頼りたい、目に見える権威にすがりたいと思うこともあります。現実に、この世の具体的なものを用いて、主に仕える助けを得ることがあります。しかし決して忘れてはならないのは、目に見えるものそのものが真の助けとはならないこと、その背後に、すべてを支配し、すべてを用いて、私たちを助け、導いておられる主なる神がおられることを確認し、このお方に信頼し、このお方にのみ依存して歩むことが大事だということです。


 さてサウルが王となって最初の大きな戦いが始まるのが、本日の聖書箇所です。サウルとその民は一つの試験、信仰の試練を受けます。神を信じるか否かという試験です。見えるサムエルに頼るのではなく、サムエルを立たせ、サムエルを用いてこられた主なる神を信じて従うかという試験です。信仰の試練は、順調に事が運んでいる時にではなく、危機的な状況の中で備えられ、信仰の是非が問われるのです。


 サムエルはサウルに試験を課していました。10章8節。七日間、サウルとその民はギルガルで、サムエルを待つということです。サムエルがイスラエルのために、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げます。これらのいけにえは、主なる神との関係が正されたことの象徴でした。自分たちを完全に神のものとして献げたことの象徴としての全焼のささげ物、そして主なる神は、その全焼のささげ物のかおりを嗅ぎ、彼らの献身を喜び、受け入れてくださいます。また交わりのいけにえは、主なる神が、自分たちの罪を完全に赦してくださったと確信して献げるものです。そのささげ物をサムエルが献げるために、ギルガルで七日間待つようにと命じられたのです。いけにえを献げるのはサムエルです。彼らが勝手に献げることは許されていません。サウルとその民は、主なる神との関係が正されていることを確認し、自分たちは神のものとされていること、主なる神が自分たちの味方であり、自分たちと共におられることを確信して待つのです。待つことに、真に神ご自身を信頼しているかが問われるのです。


 サウルはすでに、神が共におられることを体験的に知っていました。10章6~7節。そして9節。主なる神が共におられるということをサウルは体験し、確信したはずです。その後しばらくは、この確信を持ち続けていました。主がともにおられる確信を、状況がどのように変わったとしても、変わらずに持ち続けること、主なる神を信頼し続けること、そのような信仰者であることを、主なる神は私たちに期待しておられるのです。


 13章2節。サウルと共にいる民は3000人です。この場所はギルガルではありません。この時のペリシテ人との戦いは、サウル王の息子ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を打ち殺したことがきっかけで始まりました。3~4節。


 ペリシテ人はイスラエル人と戦うために集まりました。5節。海辺の砂のように多かったとあります。しかも戦車が3万、騎兵が6千です。イスラエルの兵力は19~22節。


 6~7節。イスラエルは圧迫され、少しずつ後退して行きます。ある者はヨルダン川の東に逃げてしまいました。しかしサウルはヨルダン川の西、川沿いの町ギルガルに停まり続けたのです。サムエルの到着を待つためにです。兵士たちは震えています。そのような緊迫した状況の中に、サウルとその民は置かれました。


 危機的な状態です。彼らはサムエルの約束に望みをかけて待ち続けました。しかし約束の時間が過ぎてもサムエルは来なかったのです。彼らの失望と落胆を想像させられます。もうだめだという思いに駆られたことでしょう。私たちは、彼らの信仰のなさを、簡単に批判できません。敵に追い詰められている緊迫した状況、しかも頼みにしていたサムエルは来ない。みなさまはどのような思いを持つでしょうか。


 8節。兵たちはサウルから離れて行こうとします。サウルの焦りが理解できます。どうしたら良いかと、サウルは打開策を考えたことでしょう。そして、最後の切り札として、サウルは自分で、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、民を引き止めようとしたのです。皆さんだったらどうしたでしょうか。サウルは、何とかしなければならないとの思いでいけにえを献げました。9節。サウルの人間的な知恵による打開策でした。


 10節。サムエルは意地悪だと思うでしょうか。サウルをつぶすために遅れて来たと考えてはなりません。主なる神が、そしてサムエルが、サウルに求めておられたこと、イスラエルの王とされたサウルに期待しておられたこと、それは、危機的な状況においても、主なる神のことばに従うことでした。一切の権威を委ねられた王だからこそ、神に聞いて、神のことばに自分を合わせて、従う信仰が要求されるのです。


 私たちはサウルを簡単には批判できません。批判してはなりません。私たちもまた弱い存在だからです。しかし、だからといって、私たちが主なる神に信頼を置き、聞き従わなくても良いとはされないのです。私たちもサウルと同じ弱さ、サウル以上の弱さを持っているなら、なおのこと、私たちは神を信頼し続けることを自分に言い聞かせるべきです。


 サウルと兵たちの失敗は、神ご自身を信頼し切れなかったことにあります。彼らがより頼んでいたのは、主なる神をではなく、サムエルでした。だからサムエルが約束の時間に来ないことが、彼らの信仰を失わせたのです。また彼らは、自分たちを受け入れ、自分たちの罪を赦す神ご自身にではなく、その象徴に過ぎないささげ物により頼んだのです。


 11節。サムエルの叱責です。そしてサウルが弁明します。11~12節。あなたは約束を守らなかったし、状況は逼迫している。だから自分は、この状況の中で最善と思えることをした。これがサウルの言い分でした。もしサウルが、自分は神を信じられなかったと事実を認め、赦しを求めたなら、この後のことは違ったものとなったに違いありません。しかしサウルには、自分は間違いを犯したとの自覚がありません。自分が置かれた状況で最善を尽くしたと主張したのです。これが主に従う者としての最大の欠陥です。だから


 13~14節。あなたは愚かなことをしたものだと責められます。自分では賢いことをしたと自負しているけれど、主のことばに背いている事実に気づかないでいる。これが愚かと言われるのです。主なる神が求められるのは、主の命令に聞き従うことです。主の命令を守ることです。状況がどれほど危機的なものであっても、そこで主なる神を信頼し、従い続けること。主はそのような信仰者を求めておられ、また喜ばれるのです。


 信仰とは、自分の思い通りになると信じ、それに向かって進むことではありません。神 を神とすること、神に聞いて、それを生きることです。キリスト信仰者は、主なる神が、このように信じなさいと言われたことを、そのまま信じる者です。主の命令に従うことが困難な状況の中で、私たちは信仰を試されます。主の命令に従うことは、主ご自身を信頼しなければできません。私たちに与えられた信仰は、自分の願いを実現するためのものではありません。主なる神にふさわしく整えられていくために与えられた信仰なのです。


 サウルは、自分を神に合わせて従う信仰を持つことができませんでした。主なる神を自分の神として仰ぎ、信頼し、従うことができなかったのです。私たちの信仰はどうでしょうか。自分の思い通りに、願いの通りに、計画の通りに事が運ぶのを期待する信仰でしょうか。それとも、主なる神を信じ、主なる神が命じられていることに自分を合わせて従おうとする信仰、自分を神中心に変えていただく信仰でしょうか。


 私たちも危機的な状況に置かれることがあります。その時、主を信頼できずに、間違いを犯すことがあるかも知れません。その時開き直ってはなりません。自分を正当化してもなりません。主なる神は私たちを、私たちの弱さを知っておられます。そして弱い私たちを助けてくださいます。だから間違いを犯したと気づいた時には、間違いを素直に認め、悔い改めることが大事です。


 このくり返しの中で、私たちは、自分の願う通りに事が運ぶのを期待する信仰から解放されて、主なる神のみことばを聞き、そのことばに従って生きる信仰へと変えられていくのです。罪人である私たちは、自分の肉の頑張りで主の命令を守ることはできません。


 そのような私たちを、主なる神は愛し、罪を赦し、ご自分の子どもとする特権を与えてくださいました。そのために神の御子、主イエスが人となって地上に来られ、私たちの罪をすべてその身に負って、十字架で身代わりの処罰を受けてくださったのです。私たちは愛されています。いのちを捨てるほどの愛で愛されています。そして主ご自身の力で、完全な信仰者へと整えようとしてくださるのです。


 自分の思い、自分の考え、自分の願いを優先する、自己中心の罪の性質から解放され、自分を主ご自身に、主のことばに合わせて変えていただく、神中心の信仰者へと整えていただくのです。これこそがキリスト信仰です。12章14節、13章13節、14節。


 幸いなことよ。主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。



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