2021年11月21日 礼拝「迫害による福音の拡大」使徒 8:1~8
- hikaruumichurch
- 2021年11月21日
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私たちは主なる神の深いお考えを知ることはできません。私たちが信仰生活を続けていく中で、なぜ主なる神はこのようなことを許可されたのだろうと思えることが起こることがあります。初代教会に対して、主なる神はなぜ、迫害を許可されたのでしょうか。主なる神はなぜ、忠実な信仰者の殉教を許可されたのでしょうか。主なる神はなぜ、この世的な観点からするなら、悲惨な状況の中に神の教会を置かれたのでしょうか。私たちには、その時その時に、主なる神がなされることの意味や目的を知り得ません。だからこそ気をつけたいのです。私たちには、主なる神の奥深い計画を知ることはできないのだということをです。後で振り返ってみて分かることはあっても、その時にはほとんど知り得ないのです。だから私たちの人間的な常識で、主なる神がなさるわざを判断して、事の評価を下してはならないと気をつけたいのです。私たちは、自分の好き勝手に作り上げた「神様」というイメージで、主なる神を制約してはならないのだと肝に銘じましょう。
初代教会の誕生から、教会に対する圧迫は繰り返され、次第にそれは激しくなっているのを見ます。7章では、ついに殉教者が出ました。教会が活動していくのに、何の困難や妨害もなく福音が広められ、主イエスを信じて救われる人々が多くされるなら、それは幸いだと思います。しかし主なる神は、教会が圧迫されることを許可されました。これまでの歴史において、過去も今も、世界各地で教会は迫害を受け、この日本でも、教会は迫害されました。初代教会もそれは同じで、今日の箇所ではエルサレムで、壊滅的な打撃を受けることになったのです。
もし私たちが、現世でのご利益を求めて主イエスを信じたとするなら、教会への迫害を防ぐことができない神など、信じるに価しないと退けるかもしれません。しかし私たちは、この世での物質的な祝福を得るためにではなく、罪の赦しと罪からの救いに与るために主イエスを信じたのです。また主なる神は、私たちを、この地上での物質的な祝福を得させるために救われたのではなく、物質的な祝福のすべてを失ったとしても、主イエスを信じたことそれ自体を喜び、まことの神と共に歩むことそれ自体を感謝する幸いを得させるために救い出してくださったのです。このことを、改めて覚えましょう。
この世は、主なる神を退けて、人間中心の社会を作っています。人は主なる神を退け、自分の神とすること、自分の主とすることを拒むのです。これが根源的な罪です。この罪が私たちをして、自己中心に生きさせ、様々な悪をなさせ、この世を悲惨な状態にし、人々を苦しめ、そのひずみやしわ寄せが、特に立場の弱い人々に行くのです。これが私たち罪人たちが生み出す世界の現実です。主なる神は、このような罪の世をあわれみ、罪人たちに罪の赦しを備え、罪から救おうとされました。この人々を救う働きに、私たちキリスト信仰者たちを参与させてくださるのです。主イエスを信じた私たちが、なおこの地上に置かれて生涯を送る、その大きな使命の一つが、罪の世にあって十字架の福音を、主なる神とその救いを伝えること、キリストの証人として、罪の赦しと罪からの救いを伝えることだと覚えましょう。
神に敵対しようとする罪人が作り出す社会にあっては、キリスト信仰者がキリスト信仰者として敬虔に生きようとする時、それを敵愾心を持って眺め、抹殺したいと考える人々が必ずいるということです。それが権力を結びつくと、教会は反社会的な集団とされ、社会全体からの圧迫や迫害を受けることになるのです。
2節。使徒たちはエルサレムに残り、敬虔な人たちも残って、民衆の反感を恐れずにステパノを埋葬しています。敬虔な人とは、神を恐れる敬虔なユダヤ人キリスト者を指して使われていますから、迫害の対象となったのは主にヘレニストたち、ギリシア語を話すキリスト信仰者たちと考えられます。細かいことは分からないとしても、教会に対する激しい迫害が起こりました。キリスト信仰者であるという、ただそのことのゆえにエルサレムから追放されたわけです。生活の場が奪われ、着のみ着のままで諸地方に散っていくキリスト者たちはどのような思いだったかと考えさせられます。今日本で、キリスト信仰が敵視され、キリスト信仰者であるという、ただそれだけの理由で迫害の対象になるとしたら、みなさまは何を思い、どのように行動するでしょうか。私たちは覚悟しておくことが大事です。キリスト教会は、罪の世では、反社会的な集団と見なされ得るからです。
3節。最も熱心な迫害者はサウロでした。1節でもサウロについて記されています。ステパノのような者は殺すべきだと考え、また神を冒瀆するようなキリスト信仰者を生かしておくことはできないと考えて、サウロ、後のパウロは迫害者の急先鋒を務めました。とにかくキリスト教会を消滅させ、キリスト信仰者を抹殺することが、神に忠実に仕えることだと確信して、熱心な迫害者になったのです。サウロの回心は次回取り上げます。
サウロは教会を荒らしました。キリスト者が住んでいると分かれば強制捜査を行い、その家にいる者は男も女も引きずり出して、牢屋に入れたのです。4節。他方です。サウロや迫害者の手によって投獄されたキリスト者たちがいる一方で、エルサレムから追い出された者たちがいます。まず、捕らえられた人たちについて少し見ておきましょう。
22章4節。後にイエス・キリストを信じて、福音の宣教者になったパウロの回顧です。サウロは捕まえたキリスト信仰者たちを、死に至らせています。26章10~11節。イエス・キリストを汚すことばを言わせようともしました。激しい怒りに駆られ、憎しみに満ちたサウロ、自分の全存在をかけてキリスト信仰の抹殺に燃えていたサウロの姿を想像することができます。捕らえられた人々もまた、非常な苦渋に満ちた扱いを受けたのです。
8章4節。散らされた人々、生活の場を奪われ、将来の生活に見通しが立たない人々、一般的に考えるなら、失望と不安で生きていることをさえはかなむと思われます。しかし彼らは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いたのです。これはどういうことでしょうか。何が彼らをして、失意のどん底に落とされるほどの状況の中で、散らされた先々でみことばの福音を伝えることを得させたのでしょうか。みなさまは、自分だったならどのような行動になると思われるでしょうか。
殉教、殉教者ということばは、証人から派生したことばです。新約聖書では3か所でイエスの証人であるがゆえに殉教したことが記録されています。使徒22章20節。黙示録2章13節。17章6節。殉教者の血によって福音は広まっていったのです。
初代教会は迫害によって散らされました。キリスト教の撲滅を図ろうとしたユダヤ当局がキリスト信仰者を弾圧したからです。しかし散らされたキリスト信仰者がみことばの福音を伝えながら巡り歩いたことによって、キリストの福音はサマリアの諸地方に拡がりました。主なる神が神の教会への迫害を許可されたのは、人間がどれほどの権力をもって撲滅を企んだとしても、神の教会は消滅させられることのないいのちを持っていること、そして散らされることによって福音は拡がっていくことを御存じであったからです。福音の恵みに与った者は、この世の物質的な支えに依存することはありません。物質的な富が与えられたのなら、それを神と人とのために用いるけれど、決してそれに依存はしないので、それら物質的な富が取り去られたとしても、失望したり、落胆したり、絶望的になることはないのです。私たちの支えは主なる神ご自身であり、この世でどのような状況に置かれたとしても、決して揺り動かされることがないからです。本当に幸いです。 迫害によって散らされたのは信徒たちでした。
それまで一つところに集まっていたキリスト信仰者たちが、迫害を受けて散らされました。迫害を許可することを通して信徒たちが散らされ、そしてみことばの福音が広く伝えられるという神の救いのご計画が進められたのです。信徒たちが主イエスを証することで、福音は拡がり続けました。
私たちも初代教会に倣いたいのです。福音は使徒たちによってよりも、信徒たちによってもたらされ、伝えられていったという事実を受け止めたいのです。ステパノやピリポも一信徒です。そして散らされていった信徒たちが、散らされた各地で福音を伝えたことによって、救いの恵みがより多くの人々に及ぶことになったのです。
牧師や伝道者が入っていくことのできない、職場や学校、家庭や地域、その他様々な場所に信徒たちは散らされ、送り出されています。それらは、主イエスに遣わされた場所だと自覚することが大事です。私たちは祈りましょう。自分が置かれた場所にいる人々が罪を知り、主イエスの十字架による罪の赦しを受けることができるように。そして自分に与えられた救いの恵みを感謝し、喜んで生活をする、そのこと自体が、私たちの存在そのものが、証である、証となるということです。主イエスの十字架と復活による罪の赦しと罪からの救いを確認しておくことが大事です。聖霊ご自身が人々の心を開き、みことばの福音を受け入れることができるように、自分がキリストの証人となるように祈り続けることが大事です。
私は大学卒業後の進路を考えるときに、神学校で学び、牧師や伝道者となるか、一信徒として教会に仕え、遣わされた職場で証をするかを祈り求めました。そして牧師や伝道者が入っていけない職場で証することに導かれていると思い、就職活動をしました。就職後は教会生活を中心に、家庭集会もすることができ、職場の先輩家族が救われるという主のみわざを見せていただきました。その後職場が極端に忙しくなっていき、肉体的にも、精神的にも、礼拝を献げる以外の余裕がなくなり、8年の会社勤務を終えることにして、神学校での学びに導かれ、今日を迎えています。
愛するキリスト信仰者のみなさま、みなさまが遣わされ、置かれている場所が、福音宣教の前線であるという認識を持つことをお勧めします。主なる神に祈りつつ、聖霊の助けを求めて、主イエスとともに生きる。主が喜ばれることに自分を合わせて歩み、主が悲しまれることは避けて歩む。その地道な歩みを主なる神は用いて、みなさまの存在そのものを用いて、キリストの証人とされるのです。教会形成の主のみわざは、信徒のみなさま一人一人が用いられ、霊的に整えられることで、キリストのからだにふさわしい神の教会として建てあげられていきます。福音宣教の主のみわざも、信徒のみなさま一人一人が遣わされた場所で、主に用いられることで推し進められていくのです。
初代教会は、迫害によって強制的に散らされた信徒たちの、主にある忠実な歩みが用いられて、福音宣教の主のみわざが推し進められていきました。信徒たちの証を通して、救いの恵みは広く及んでいったのです。使徒たちは、それぞれの祈りとみことばの奉仕に用いられていますが、社会に最も影響力を及ぼしたのは、信徒一人一人であり、宣教の主は信徒たちを用いられたという事実を認めましょう。あなたの存在そのものが証なのです。
みなさまは、自分が主イエスを求め、教会に導かれたきっかけとなったのは、牧師や伝道者などの人々ではなく、身近にいたクリスチャンたちではなかったでしょうか。キリストのからだである神の教会を構成する核となるのは、牧師や伝道者ではありません。信徒一人一人です。やがて私も、この働きを後継者に委ねて、光る海教会を去る時が来ます。みなさまは残るのです。信徒一人一人が教会です。主なる神はみなさまを参与させて、福音宣教、教会形成のみわざを推し進められるのです。
今週のみことば「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」
私たちの地上生涯には苦難があります。主イエスを信じて、敬虔に生きようとすることが苦難に見舞われる要因となることもあります。しかし主は世に勝ちました。私たちも主にあって、世に勝利するのです。だから勇気を出して、主に用いられる存在とさせていただきましょう。その光栄を味わわせていただくのです。

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