top of page

2026年7月26日 礼拝「罪人を招く主イエス」ルカ5:27~32

  • 7月26日
  • 読了時間: 10分

 今日私たちは、主イエスは「罪人」、すなわち、自分には罪があると認め、罪の赦しと

罪からの救いを求めている「罪人」を、招いておられることを確認します。

 今日の箇所に、12弟子の一人、レビ(マタイ)が主イエスの弟子となった経緯が記され

ています。レビは自分の仕事を捨てて、主イエスの招きに応じて、従いました。ルカの福

音書ではレビですが、マタイの福音書では、マタイとなっています。このレビが、マタイ

の福音書を書き記したマタイです。

 27節。主イエスは町を出て、道を歩いているときに、収税所に座っているレビという取

税人に目を留められたとあります。主イエスはレビに何を見られたのか、詳細は記されて

いません。主イエスはレビに声をかけ、自分について来るようにと招いたのです。すると

レビはすぐに、主イエスの呼びかけに応じました。

 取税人という職業は、ローマの手先となって、人頭税や通行税などを徴収して、ローマ

帝国に納める人たちです。新約聖書の時代、今から二千年ほど前、イスラエルを含む世界

はローマ帝国が統治していました。ローマ政府は、税金を集める権利、徴税権を売り、そ

の権利を買った統治国民の取税人たちに税金を集めさせたのです。税額は、人頭税も通行

税も、徴税権を買った取税人が自由に決めることができました。ローマ政府は、取税人が

定められた税額をローマ政府に納めているかだけを確認していたからです。徴収した税額

とローマに納める税額の差額分が、報酬に加えられて、取税人たちの収入になるというこ

とです。このゆえに、悪徳取税人は大金持ちになっていったのです。

 レビもその徴税権を買って、取税人となっていました。同胞から税金を集め、それを支

配国に納める取税人は、同胞から売国奴、非国民と呼ばれ、非難されていました。ローマ

の権威を笠に着て、同胞から正規の税額以上のものを巻き上げる取税人もいましたから、

盗人呼ばわりされてもいたのです。取税人は人々から疎まれていました。金持ちにはなっ

ても、孤独であり、また良心の疼きに苛まれる人もいたでしょう。エリコにいた取税人の

かしらザアカイと同様に、レビも救いを求めていたのではないでしょうか。

 27節。レビは収税所に座っているとありますから、通行税を徴収していました。レビの

地盤はガリラヤ湖畔の町カペナウムですから、そこを拠点としてガリラヤ伝道を行ってい

た主イエスをたびたび見かけていたと考えられます。イエスの噂もいろいろと聞いていた

でしょう。イエスは律法学者やパリサイ人たちのようにではなく、権威ある者のように教

え、いろいろな病気を癒し、悪霊を追い出して、悪霊に憑かれている人を解放しているな

ど、神としての権威をもって、神の国への招きをしていることも知っていたのです。その

ようなイエスを遠くに眺めつつも、自分のような取税人は、神の国に入れるはずはない

し、イエスのような方と近しくなれるはずはないと考えていたと思われます。

 取税人である自分だから仕方ないと諦めていたのに、主イエスから、わたしについて来

なさい、と声がかかったのです。主イエスが自分を呼んでいる。レビにとっては、それこ

そ青天の霹靂とも言えるほどの驚き、そして喜びだったと思われます。お金はあり、生活

にはゆとりがあります。でも何かが足りない。満たされない心を抱いている。それは自業

自得だと自分に言い聞かせてもいたでしょう。取税人になることを選んだのだから、人々

からも、神の国からも除外されているのは当然だと思っていたのです。

 でも主イエスから、わたしについて来なさいと呼びかけられた時、レビの心は、お金で

は得られなかった、喜びと感謝で一杯になりました。自分は受け入れられている。自分は

招かれている。神としての権威を持つ方についていくことができる。これ以上の光栄はな

いと考え、感謝し、喜びました。

 だから28節。レビはすぐに取税人の仕事を捨てて、主イエスに従っていったのです。そ

れほどの価値を、レビは主イエスについて行くこと、主イエスとともに歩むことに見いだ

したのです。キリスト信仰者の私たちも多少の差はあっても、同じ経験をしています。

 レビが取税人の仕事を放り出したことを、無責任だと非難してはなりません。徴税権を

買ったのであって、前金分はローマに支払っています。つまり税金を集めないのは、レビ

が損するだけです。ローマに対しても、誰にも損害を与えません。レビは主イエスととも

に生きる人生を選んだことで、お金から解放されたということです。

 29節。レビは、主イエスに従うことに、すべてを捨てても惜しくない価値を見いだしま

した。だから自分の家で食事会を開いたのです。同業者である取税人たち、そして罪人と

見下されている人たちに、主イエスを紹介するために大盤振る舞いをしました。

 聖書に出てくる罪人とは、犯罪人ではありません。職業柄やその他の様々な理由で、宗

教指導者が守るようにと定めた律法の規定を守れない人たちです。彼らは民衆から、特に

宗教指導者たちから、おまえたちが律法を守らないから、イスラエルはローマに支配され

ている。おまえたちが律法を守り行うなら、神がイスラエルを独立国家としてくださると

非難され、おまえたちは罪人だと断罪されていました。その、罪人たちです。

 レビは盛大な食事会を開き、大勢の取税人や罪人たちを招きました。自分のような者も

主イエスに招かれたこと、そしてだれであっても、主イエスに従う者となることができる

と招いたのです。今まで決して味わえなかった喜び、感謝、満足を、今心から味わってい

ると証し、それを一人でも多くの、社会的に見下され、宗教的に除外されている者たちに

も味わってほしいと願い、食事会を開いたのです。主イエスを証しするためです。

 しかし30節。パリサイ人や律法学者など、特に律法を守ることを重んじる宗教指導者た

ちには受け入れがたい光景です。神の国を伝えている者が、取税人や罪人たちと一緒に食

事をするなど、あってはならない非難すべき行動です。自分たちの生き方を変えて、律法

を守る生活をしない、そのような者たちと、食事という最も親密な関係を持つことは、宗

教的な汚れを被ることになると考えられます。だから避けなければならない行為です。そ

れなのに、ナザレのイエスは、何のためらいもなく、罪人たちと一緒に食事をしている。

それでイエス本人にではなく、弟子たちに、あなたたちが疑問の声をあげるべきではない

かと詰め寄ったということです。自分たちの先生を正してほしいと。

 主イエスは、弟子たちが、パリサイ人たちの考えに引き込まれる前に、ご自分の考えを

述べます。31節。医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。当たり前のことで

す。しかし本当は病を抱えていても、自分は健康だと思っているなら、医者には行きませ

ん。医者の治療を必要とする重大な疾病を抱えていても、自覚症状がなく、自分は健康だ

と思っている限り、医者には行かないのです。つまり、医者を必要とするかどうかは、そ

の人の病状が実際にはどうであるかではなく、その人が自分の体調をどう考えているかに

よるのです。実際には重大な疾患を抱えているかもしれません。体調不良を覚えたとして

も、少し休めば治ると思っているなら、医者には行きません。自分は病気だと自覚してい

て、治してもらいたいと思った時、人は医者に行くのです。医者を必要とするのは、自分

は病気だから、医者に診てもらう必要があると考える人です。

 32節。主イエスは招きます。正しい人をではなく、罪人をです。自分は正しいと思って

いる人、自分で何とかできると考えている人は、自分は救われなければならない罪人だと

は思っていません。自分は他の人よりましだと考えている人も同じです。そのような人は

主イエスを必要としません。救われたいとは考えていないのですから当然です。

 しかし自分には罪がある。自分では償えない罪を抱えている。この罪を赦してほしい。

罪から救ってほしいと願う人は救いを求めます。そのような人を、主イエスは招き、受け

入れ、悔い改めに導くのです。その人がどれほど大きな罪を犯していても、些細な罪を犯

していても、罪を赦してほしい、罪から救ってほしいと願う者は、主イエスの招きから排

除されません。主イエスは罪があると自覚し、罪を赦してほしい、救われたいと願う者を

招いています。罪に赦しを与えるために、罪から救うためにこの地上に来られたからです。

 みなさまはいかがでしょうか。自分では償えない、様々な罪を犯してきたのではないで

しょうか。その罪や過ちを赦してほしいと願っていないでしょうか。そうであるなら、主

イエスは招いています。自分には罪があると認め、罪の赦しを欲しているなら、主イエス

は悔い改めさせ、罪の赦しを与えます。そのために主イエスは人となられ、十字架で身代

わりの処罰を受けたのです。自分では償い得ない罪を犯してきた私たちは、その当然の罰

を受けなければなりません。しかし愛と義に満ちている神は、私たちを罰する代わりに、

罪のない、罪を犯したことのない神の御子、主イエス・キリストを罰することで、私たち

に赦しを備えて、救いへと招いておられるのです。これが主イエスの十字架の意味です。

 レビを、わたしについて来なさいと招かれた主イエスは、私たちをも、わたしについて

来なさいと招いておられます。レビのように、私たちも今の仕事を捨てて、今の状態を放

棄して、主イエスについていくのではありません。今の状態のままで、主イエスの招きに

応じることが第一歩です。自分には罪がある、赦しが必要だと自覚するなら主イエスに受

け入れてもらう必要があるということです。

 私たちができること、そしてすべきことは、主イエスの招きに応じることです。わたし

について来なさいとの呼びかけに応じればよいのです。自分に罪のあることを認め、主イ

エスを信じて、悔い改め、罪の赦しを受け取ることです。後は、主なる神が、私たちにとっ

ての最善を整え、そこに導いてくださいます。罪の刈り取りをしなければならないことも

あります。主なる神はその罪の刈り取りをも、益に変えてくださるのです。

 その時私たちは、自分が創造者である神に受け入れられていることを味わいます。自分

が何かをしたからではなく、悪癖を止めたからでもなく、罪を犯さなくなったからでもあ

りません。何もできない、弱く、汚れている、そのままの私たちが、ただ主イエスの招き

に応じるだけで、神の支配の中を歩み、主イエスの、神としての全能の力を味わうことに

なるのです。主イエスとともに歩む中で、気がついてみると、自分ではどうすることもで

きなかった悪癖から離れている、後悔しても繰り返していた罪を犯さなくなってもいる、

そのような自分を見出すことになるのです。少しずつかもしれないけれど、確実に変えら

れていきます。主イエスにある霊的な成長、霊的変化を体験していくのです。

 主イエスの、神としての全能の力が、主イエスを信じる私たちを変えてくださいます。

これが救われた者が味わい、体験する霊的な祝福です。この救いを与えるために、神の御

子は人として生まれ、十字架で身代わりの処罰を受けてくださいました。あなたを愛して

いるので、あなたに罪の赦しを差し出すために、十字架であなたの身代わりに罪の処罰を

受けたのです。そうしてあなたを招いておられます。主イエスを信じ、主イエスとともに

歩む人生を歩むようにと、招いておられます。信仰による一歩を踏み出せばよいのです。


 
 
 

コメント


bottom of page