2026年9月13日 礼拝「パウロが喜んでいること」ピリピ 1:12~18
パウロは、喜んでいます、これからも喜ぶでしょうと、ピリピの聖徒たちに書き送りま
した。パウロにとって、ピリピの聖徒たちは、真に心を許せる間柄であったと言えます。
ピリピの聖徒たちは、ピリピの町に福音が伝えられた最初の日から今日まで、福音を伝え
ることにともにあずかってきた仲間です。パウロはそのことを感謝していると、この手紙
に書き記しています。そのようなピリピの聖徒たちに、喜んでいること、これからも喜ぶ
ことを共有しようとしているのです。では、パウロは何を喜んでいるのでしょう。今日の
箇所を確認して、パウロが喜びとしていることを、私たちも自分の喜びとしたいのです。
ピリピの聖徒たちとともに、霊的恵みを共有しましょう。
12節。私の身に起こったこととは、14節を見ると、パウロが投獄されたことだと分か
ります。パウロは、キリストの福音を宣べ伝え続けたことのゆえに、投獄されました。そ
うして福音の大宣教者であったパウロが捕縛され、牢獄に入れられたのだから、福音は停
滞する、あるいは後退すると考えがちですが、パウロの投獄が、かえって福音の前進に繋
がっていることを知ってほしいと、書き送ったのです。
13節。パウロの投獄は、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになりとあり
ます。パウロは捕らえられ、看守の監視の下に置かれました。自分を監視する兵隊たちと
の交流が与えられ、それが福音を伝える機会として用いられた、つまり福音の前進に役立
ちました。この事実を知ってほしいと書き送るのです。福音を伝えることにともに携わっ
てきたピリピの聖徒たちに、この事実を確認させ、続けての福音宣教を促したのです。
親衛隊とはローマ皇帝の身辺を守るために組織された直属の精鋭部隊のことです。この
ことばは、脚註を見ると総督官邸とも訳せるとありますから、総督官邸であるなら、パウ
ロが捕らえられているのは、ローマ総督の官邸となります。ピリピ人への手紙がどこの牢
獄で書かれたのかは断定できません。文字通り「親衛隊」であるなら、使徒の働き28章の
ローマでの監禁中となります。これが伝統的な考え方です。しかし総督官邸であるなら、
使徒の働き24章の、カイサリヤの総督官邸に投獄されていた2年間とも考えられます。ど
ちらにしても、パウロの投獄は、福音の前進に繋がりました。
パウロが投獄されたことのゆえに、福音が前進した出来事といえば、使徒の働き16章が
思い浮かびます。パウロとシラスがむちで打たれ、ピリピの牢獄に入れられた時、彼らは
賛美し、祈りをしていました。ほかの囚人たちは、その賛美と祈りに耳を傾けていたので
す。そうして真夜中頃に大きな地震が起き、牢獄の扉は開け放たれ、囚人たちの足かせは
外れました。その状況の中、看守は囚人がみな逃げてしまったと思い、自害しようとした
のです。その時パウロはそれを止めて言います。自分たちはみなここにいると。
その出来事を通して、看守とその家族は主イエス・キリストを信じる者となりました。
またパウロは、自分はローマの市民であることを伝え、長官たちに直接出向かせました。
彼らはパウロとシラスを宥めて、釈放しました。このことを通して、ピリピの町でのキリ
スト信仰者たちは、大胆に信仰生活を送ることができる環境が整えられたと言えます。ま
さにパウロの投獄が、福音の前進に役立ったことの一例です。
14節。パウロの投獄は、福音を宣教し続けたことが原因ですが、パウロが投獄されたこ
とが福音宣教の勢いを失わせるのではなく、兄弟たちの大多数が、主にあって確信を与え
られ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになったのです。迫害される
ことが福音宣教の妨害になるのではなく、福音がますます拡がっていくきっかけになるこ
とは、使徒の働きに記されている、福音の拡がりにも見ることができます。
主イエスは天に帰る前に、弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがた
は力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わ
たしの証人となります」と約束されましたが、彼らはしばらく、エルサレムに留まってい
ました。その状態を打破したのが、パウロ(サウロ)による教会への迫害です。サウロの
迫害によって「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」のです。
主イエスを信じて、罪の赦しと罪からの救いに与ったキリスト信仰者は、迫害によって信
仰を奪われることなく、福音を大胆に伝え続けました。福音は前進したのです。
初代教会は、ユダヤ社会から、そしてローマ社会から、迫害を受け続けました。しかし
キリスト信仰者たちは、福音を伝え続けたのです。この世に依存することから、創造者で
あるまことの神に依存する生き方へと変えられていたからです。そうして今や、全世界に
福音は拡がっています。いのちがあるので、福音は拡がり続けるのです。キリストの証人
となるという「証人」が、その後「殉教者」という意味を持つようになることは不思議で
す。
15節。圧迫を受けても、迫害に晒されても、多くの兄弟たちは、大胆に福音を語り続け
ました。しかしパウロの周りにいる人々の、その動機は同じではありませんでした。パウ
ロに対する善意から宣べ伝える者もいたけれど、パウロに対する妬みや争いからキリスト
を宣べ伝える者もいたのです。その具体的な動機が16~17節で述べられます。
善意からキリストを宣べ伝える者たちは、パウロが福音を弁証するために立てられてい
ることを認めて、パウロを用いて福音を伝えさせた神への愛をもってキリストを伝えてい
ます。しかし党派心からキリストを伝えている人々は、純粋な動機からではなく、パウロ
をさらに苦しめようとしているということです。これがパウロの心を悩ます要因の一つで
あることは確かでしょう。いろいろな動機があるものだと思わされます。
しかし人の行動で一喜一憂するなら、心の安定は奪われ、状況に左右されて揺り動かさ
れることになります。パウロは、自分を苦しめようとしている人々の現実を認めた上で、
彼らの動機にではなく、なされている事実に目を向けたのです。
18節。パウロの関心は、キリストが宣べ伝えられているか、ということです。十字架に
つけられたナザレのイエスがキリストであり、あの十字架の死は、罪人を赦すための身代
わりの処罰であって、救い主イエスを信じ、自分に罪のあることを認め、悔い改めて赦し
を求めるなら、だれでも罪が赦され、罪からの救いに与ります。罪を赦された者は神の子
どもとされ、永遠のいのちを与えられて、神のいのちに生きる者とされると、福音が正し
く伝えられているなら、パウロは、それを喜ぶと言うのです。
パウロはガラテヤ人への手紙に次のように書き送りました。「私たちであれ天の御使い
であれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝え
るなら、そのような者はのろわれるべきです」と。これ程までに、福音に反することを福
音として宣べ伝えることに嫌悪感を持っているパウロが、キリストがキリストとして宣べ
伝えられているなら、動機がどうであれ、そのことを喜ぶと言い切ったのです。
福音が曲げられている、神の恵みによる救いが否定されるなら、パウロはのろいを宣言
します。しかし福音、神の恵みによる救いが、正しく伝えられているなら、その人の動機
が歪められていても、それを喜ぶし、これからも喜ぶでしょうと言い切りました。私たち
もパウロの、この信仰姿勢に倣いたいのです。その人の動機が、党派心から、私たちを苦
しめる目的であっても、キリストが正しく伝えられているなら、それを喜ぶのです。
9~10節でパウロは「あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊
かになり、大切なことを見分けることができますように」と書き記しましたが、私たちが
味わい知った、神の無条件の愛、神の自己犠牲の愛が、神のことばに基づく真の知識と、
聖霊によって真理を見極める識別力によって、いよいよ豊かに理解されることで、真に大
切なことを見分けることができるようになる、つまり異なる福音と真の福音を見分けるよ
うになると言うのです。
神の愛は無条件であり、自己犠牲です。それが十字架による、主イエスの、すべての人
のための身代わりの処罰へと進ませました。この神の愛を正しく知ることが大事です。愛
の神はすべての人を愛して、その罪に赦しを備えて招いておられます。神の愛はすべての
人に無条件に注がれています。しかし救いは無条件ではありません。罪の赦しが、救われ
るための絶対の条件です。十字架で死なれた主イエスを救い主と信じ、差し出された罪の
赦しを受け取ることがなければ、神は、罪を抱えたままの人を愛するけれど、罰し、滅ぼ
さざるを得ないのです。私たちは神の愛を正しく知り、豊かにされることが必要です。
一見すると福音であるかのように思わされても、それは真の福音ではないこともありま
す。初代教会時代から、現代に至るまで、異なる福音が人々を惑わします。初代教会時代
の初期には、ユダヤ人キリスト信仰者たちが、救いは、主イエスを信じる信仰だけでは不
十分で、行いが必要であること、神の民とされたユダヤ人のように割礼を受け、律法に従
う生活をしなければ救われないと、押しつけてきました。
現代でもいろいろな異端に共通するのは、主イエスを信じる信仰に、行いを付け加えて
いることです。その異端が求める行いをすることが救いの条件です。私たちの神への愛、
神の私たちへの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、真に大切な
ことを見分けることで、それらの間違った教えを見極めることができるのです。
今日私たちは、パウロが喜びとしていることを確認しました。キリストが真にキリスト
として宣べ伝えられているなら、その人のキリストを宣べ伝える動機が不純であっても、
キリストが宣べ伝えられていることを喜びとするのです。
しかし主イエス・キリストの十字架での身代わりの死と葬り、三日目の死者の中からの
復活を信じる信仰によって救われる、この福音を否定する教えであるなら、そのような者
はのろわれるべきですと、私たちも宣言しなければなりません。福音は、罪の赦しと罪か
らの救いの良い知らせであり、神の一方的な恵みによって与えられるのであって、人間の
いかなる行いは、何の役にも立ちません。行いが必要であると求める教えは、排除しなけ
ればなりません。また現世利益を約束するような教えも、排除するのです。
救いは、主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられる神の恵みによる賜物
です。またこの地上での物質的な祝福を約束するものでもありません。日々聖書から、神
の語りかけを聞いて、霊的真理を身につけていることが大事です。神の愛と神の義につい
ても、みことばと聖霊によって、さらに深く、正しく。教えられましょう。




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