2026年9月20日 礼拝「年老いてもなお、実を実らせる」詩篇92:12~15 敬老祝福
今日の礼拝を、私たちは、敬老祝福礼拝としてお献げしています。そして75歳以上の方
に、お祝いとして、ささやかやプレゼントをご用意いたしました。
今年の敬老祝福礼拝では、年老いてもなお、実を実らせるという神の約束を確認して、
老いることもまたすばらしいことを覚えたいのです。私たちキリスト信仰者は、創造者で
あるまことの神にあって、すばらしい老いが約束されています。まだ若いと思っている者
もみな、必ず老いを迎えます。その時、老いの祝福を味わえる者となりましょう。
まず、高齢者の方々を尊敬しましょう。様々な経験を重ねながら、長い年月を生きてこ
られたことそれ自体、十分に敬うに足ることです。私たちは今、ご高齢の方々が作り上げ
てきた社会の恩恵を受けて、今を生きています。確かに、社会の現実を見る時、喜ばしい
恩恵だけではなく、負の遺産をも引き継いでいることも事実です。しかし負の遺産はある
にしても、祖父母や両親、人生の先輩たちが存在して、私たちは存在し、今の社会が成り
立っています。まずこの事実を感謝するのです。そして高齢者を敬う社会を作り上げるこ
とは、やがて自分が年老いた時に、自分の存在が価値あるものと見なされる社会を作るこ
とでもあるのです。少なくても神の教会においては、高齢者に感謝し、尊敬し、尊重する
交わりを築き上げていくことができるはずです。
まず聖書は、高齢者を敬うことを命じます。旧約聖書の律法(レビ19:32)に、「あなた
は白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わ
たしは主である」と定められています。これは、創造者であるまことの神が高齢者の存在
を肯定し、その存在を用いて歴史を作り、その恩恵を受けているという事実に立って、高
齢者であるその人を、高齢者であるただそのことのゆえに、敬えとの命令です。
年老いるに従って、明らかにできなくなることが多くなります。効率を求め、生産性を
優先する社会において、年寄りはお荷物扱いにされやすい存在です。だからこそ聖書は、
神のことばは、そのようにしてはならないと明確に禁じるのです。老人を敬うことは、神
を恐れることと同列にされるほど、重要であることを覚えておきましょう。
老いるにしたがって、体力的な衰えばかりではなく、知的な衰えも明らかになります。
私も70代になり、記憶力が相当怪しくなってきています。知的能力は20歳頃を頂点とし
て、低下する一方であると言われていますが、そのとおりです。確かに、記憶力や計算力
などは、年とともに低下しています。でも知的能力の中で、総合的理解力や総合的判断力
など、物事の全体を把握する能力については、年齢とともに低下することはありません。
年齢に応じて上昇するとも言われているのです。励まされますね。体力や肉体的能力は衰
える一方ですが、総合的な理解力や判断力において知恵深く歩む者となりたいものです。
「老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知がある」(ヨブ12:12)ことは、旧約聖書時
代における社会的常識となっていたのです。
さて、今日の聖書箇所を見ましょう。詩篇92篇14節「彼らは年老いてもなお、実を実
らせ、青々と生い茂ります」とあります。ワクワクしてきますね。だれもが年老いていき
ます。その時に、なお、実を実らせている。青々と豊かに葉を生い茂らせて、人々に憩い
を与えている。これはかくしゃくとして、何でもてきぱきできて、人を助けているという
ことではないと思われます。老いるに従って、できなくなることは多くなります。てきぱ
きと何かをすることでその存在を示すということではなく、その人の存在が、人々に潤い
を与え、周囲に憩いをもたらしているということです。
この、彼らとは12節「正しい者」です。「正しい者」とは、自己正当化する者、自分で
自分を正しいとする者ではなく、主なる神に正しいと認められる者で、聖書全体を見るな
ら、主なる神を自分の神とあがめ、主なる神の絶対的な基準を正しいとして、その基準に
歩もうとする者、信仰によって、神に義と認められた者たちです。
正しい者は、なつめやしの木のように萌え出で、レバノンの杉のように育ちます、と将
来が約束されています。レバノンの杉とは、ヒマラヤ杉とほぼ同じであり、まっすぐに伸
びる姿は本当に美しいものです。なつめやしは20~30メートルの高さに達し、結実まで
40年の歳月を要すると言われますが、それから150年に亘って実を実らせ、1本の木に12
の房がつき、それぞれの房には千個の実を実らせるそうです。その根は地下深く30メート
ルにも伸び、地下水にまで届くので、乾期でも、干ばつになっても、葉は青々と生い茂ら
せるのです。正しい者はそのように、いつまでも生き生きとして、まっすぐに立ちます。
92篇1~2節に「主に感謝することは よいことです。いと高き方よ あなたの御名を
ほめ歌うことは。朝に あなたの恵みを 夜ごとに あなたの真実を受けることは」とあ
りますが、正しい者とは、創造者である神との関係において正しい者、主なる神に感謝を
ささげ、いと高き方、天地万物を創造され、私たちを造り、私たちにいのちを与え、生か
しておられる、生ける神を自分の神として、ほめ歌を歌って生きる者です。
その者は、朝に、主の恵みを覚え、味わい直し、その一日を、主の恵みに委ねつつ、誠
実に、忠実に、委ねられている働きを行い、夜には、この一日も、主なる神の真実に支え
られ、生かされてきたことで、感謝を表す。そのように、創造者に造られた者が、創造者
である神とのあるべき関係に生きている、そのような人を正しいとするのです。
正しい者に対比される者は6~7節で「無思慮な者は知らず 愚か者にはこれが分かり
ません。悪者が 青草のように萌え出で 不法を行う者が みな花を咲かせても それは
彼らが永久に滅ぼされるためです」と記しています。
彼らは知的にはすぐれているかも知れません。学力があり、仕事もでき、様々な能力に
秀でていることもあるのです。この世が評価するなら、彼らは優秀で、立派な人と言われ
る存在でしょう。しかし自分の創造者を知りません。知ろうとしません。いのちが与えら
れ、生かされ、様々な能力を与えられたにもかかわらず、それを与えてくださったお方を
知らない、知ろうとしないのです。そのような意味で、無思慮な者、愚か者なのです。
そのような者たちは、悪い者、不法を行う者と表現されます。主なる神の御前では悪者
であり、不法を行う者です。この世が評価するのと、主なる神が評価するのとでは、その
基準が異なっています。彼らは、青草のように萌え出でており、花を咲かせているかもし
れません。この世は彼らを成功者と呼び、羨望の的として見ることもあるでしょう。しか
し、それは青草のようだと言われます。青草はその時期が過ぎれば枯れるのです。青々と
しているのは一定期間だけです。そして主の御前での悪事が裁かれる時が来ます。
そのような意味での無思慮な者、愚か者、悪い者、不法を行う者に対する、正しい者と
いうことです。正しい者は、なつめやしが地下水からしっかりといのちの供給を得て、レ
バノンの杉のようにまっすぐと伸びているように、いのちの根源である創造者である神に
しっかり根差し、神のいのちを豊かに得ているので、いつでも青々と葉を茂らせて、年老
いてもなお、しっかりと立ち、主なる神が実らせてくださる実をつけるのです。
その実は、無思慮な者が実らせている繁栄の実とは異なります。しかし人々を真に潤
し、憩わせ、喜びと感謝に溢れさせる実です。主なる神が結ばせてくださる実として、ま
ず御霊の実があります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。物
質的な繁栄の実、競争社会の中で、人々から奪って集めることによって得る実ではなく、
私たちの品性が整えられ、成長することによって結ぶ霊的品性の実です。愛の実を結ぶこ
とができたなら、これほどの光栄はありません。無関心が横行する、冷たい心が作り出す
愛のない社会において、愛の実を結ぶ者たちとして成長させていただきたいのです。
互いに愛し合う関係を深めることができるなら、どんなにか幸いな関係を築き上げるこ
とになるでしょうか。身近な人との関わりにおいて、関心を持ち、その人の立場で考え、
寄り添って生きることのできる、神の愛で愛する愛の心をまず結ばせてもらう必要があり
ます。これは、主なる神にしっかりと結びつき、神のいのちを豊かにいただくことがなけ
れば実らせることはできない実です。だから年老いてもなお、実を実らせることができま
すし、いつからでも、実を実らせる者となるのです。
13節。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で花を咲かせます。愛が与えら
れ、喜びと平安に満ちている人と一緒にいることは、本当に幸いです。寛容な人、親切な
人、善意の人と関わる時、私たちの心には、安心と喜びと感謝が生まれます。誠実な人、
柔和な人、自制ができる人と過ごすのは、争いのない、幸せな歩みとなります。そのよう
な人々は、主の家に植えられ、神の大庭にしっかりと根を下ろすことで、この世の殺伐と
した暴風のような状況の中にあって、なお品性という美しい実を実らせ、青々と生い茂っ
て、人々に憩いを与え、慰めと安らぎをもたらす者となるのです。
15節。こうして彼らは告げます。主は正しい方。わが岩。主には偽りがありません。こ
のように告白するところに、生き生きした生の秘訣があります。
私たちは長生きするなら、必ず老いを迎えることになります。そして感謝であるのは、
主なる神の御前に正しい歩みを模索し、そしてその正しさを歩み続ける時、年老いてもな
お、実を実らせる歩みが約束されていることです。実を実らせる歩みは主の御前での正し
さを歩み出した時から始まり、実を実らせる歩みは、年老いてもなお、続くのです。その
歩みにおいて、主が結ばせてくださる実は、だれも否定したり、禁じたりしない、すばら
しい品性の実であり、すべての人が身につけたいと願っている実です。そのような人は、
存在そのものが周りを潤し、人々を憩わせ、一緒にいたいと思わせるのです。
秘訣は、いのちの根源、創造者である神から、豊かないのちの水を得ることです。この
詩篇の表題は、安息日のための歌ですが、毎週、毎週、神の御前に集まり、主なる神をさ
んびし、ほめたたえ、その御業を喜び、神のいのちに満たされていく。神のことばを生き
るいのちを繰り返し、繰り返しいただく。その積み重ねが、年老いてもなお、実を実らせ
ていくのです。老いを敬い、老いを楽しむ私たちとされたいのです。
今週のみことばを確認しましょう。「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たち
の外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」みことばの約束は、年老
いても、日々新たにされている、信仰者の歩みができるということです。私たちキリスト
信仰者は、内に住んでおられる聖霊の取り扱いを受けながら、日々新たにされていくとい
うことです。




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