2026年7月19日 礼拝「あわれみの器として」ローマ9:14~24
- 7月19日
- 読了時間: 9分
パウロは6節で「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではありません」と記しま
した。私たちも、この霊的認識を持っていることが大事です。「神にはえこひいきがあり
ません」ともあります。主イエスを信じる信仰によって救われるのであって、そこにはユ
ダヤ人だからとか、ユダヤ人ではないからとの線引きはありません。この霊的真実も踏ま
ましょう。私たちが罪の赦しを受け、罪からの救いを得るのは、十字架で死なれた神の御
子、主イエス・キリストを、自分の救い主と信じ、自分の主とすることによるのです。
前回の箇所では、ヤコブの選びが記されていました。兄エサウも、弟ヤコブも、まだ母
リベカの胎内にいるときに、兄が弟に仕えるとの、主のことばが語られていました。13節
には、預言書マラキを通して語られた「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という
神のことばが引用されています。
この神のことばを受けて14節です。神は不正をしていると思う人たちがいることを前提
にして、決してそんなことはない、神に不正はないとパウロは断言します。なぜそう言い
切れるのか、その理由が15節です。創造者である神はモーセに言われました。「わたしは
あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」と。というのは、
すべての人は罪の性質を持って生まれ、創造者である神を自分の神とせず、神に敵対し、
反逆しています。つまり、すべての人は神の怒りの対象となっているのです。そのような
私たちに対して、あわれみと恵みに富む神はあわれんでくださり、いつくしんでください
ました。私たちのうちの、だれをあわれまれるのか、だれをいつくしまれるのか、それを
決めるのは創造者である神ご自身です。
ヤコブも、エサウも、まだ生まれる前、善も悪も知らないときに、神はヤコブを選び、
祝福されました。だから16節。これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくだ
さる神によるのですとパウロは結論づけるのです。
同じことがエジプトの王ファラオに対しても言われています。17節。主なる神は、出エ
ジプトの際に、ファラオの心を頑なにしました。頑ななファラオをあわれまずに、そのま
まに放置されたと言い換えても良いかもしれません。その目的は、主なる神の力をファラ
オに示すためであり、様々な不思議を繰り返すことで、神の全能の力を全地に知らしめる
ためです。そうして最後に、主なる神がまことの神であることを認めさせたのです。
18節。神は人をみこころのままにあわれみ、みこころのままに頑なにされます。神がだ
れをあわれみ、だれをあわれまないか、その主権は神にあります。そして今、ユダヤ人は
頑ななままにされる中で、パウロを始め一部のユダヤ人たちはあわれみを受け、主イエス
を信じる信仰が与えられたのです。私たちキリスト信仰者も神のあわれみを受けたので、
多くの人々が主なる神を神としない社会の中で、十字架につけられた神の御子を信じる信
仰を持つことができました。感謝です。私たちはあわれみを受けたのです。
パウロは神の主権的な選びを述べてきました。選びによる神の計画があり、それが実行
されています。とするなら、神が人を責めるのはおかしいと言う人たちがいます。19節。
だれも神の意図に逆らえないのだから、自分が神に対して不信の罪を犯しても、神に敵対
する者となったとしても、自分が責められるのはおかしいではないかと。私たちもそのよ
うに考えるかもしれません。神に絶対的な主権があり、その主権に従って事が行われてい
るとするなら、だれも、神の主権に逆らうことはできない。だから私たちが神に敵対し、
背く罪を犯したとしても、神が、人を責めるのはおかしいと主張したくなります。
しかし20節。パウロは、造り主と造られた者との関係をよく考えよと言います。造り主
が主権者であって、造られた者は造られたことそれ自体を受け入れなければなりません。
造り主はどのように造るかを考えて、そのとおりに造るのであって、造られる側には、要
望する資格も権利も、何もありません。どうして私をこのように造ったのか、とは言えな
いのです。私たちは、自分が造られた存在であることを、受けとめなけれがなりません。
21節では、陶器師と器の関係を例にして、造り主と造られた側との関係を説明します。
陶器師は同じ土のかたまりから、尊いことに使う器を作るか、普通の器を作るかを決める
権利があると言います。器側に作ってもらう権利があるのではなく、陶器師に、何を作る
かを決める権利があるのです。これが作る側と作られる側の間にある関係です。創造者で
ある神と、神に造られた私たちの間にある関係も同じです。造る側に権利があるのです。
22節。神は怒っておられます。1章18節で「不義によって真理を阻んでいる人々のあら
ゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」とあるとおり、公正な義
の神は、私たちが犯したすべての罪や咎に対して怒りを向けておられるのです。
また3章では、旧約聖書から引用しながら「義人はいない。一人もいない。悟る者はい
ない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となっ
た」と私たち人間の罪の現実を指摘しています。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を
受けることができず」ともあります。罪人の私たちの出発点はここです。
しかし主なる神は愛の神であり、私たち罪人をこよなく愛し、罪に死んでいるような私
たちをかわいそうに思って、あわれんでくださいました。そうして私たちに、罪の赦しを
備えるために、神の御子イエス・キリストを人として地上に遣わし、私たちの罪の処罰の
身代わりとして、十字架で処罰したのです。私たちに罪の赦しを備えて、悔い改めに招く
ために、神の御子を十字架で死なせたということです。
と同時に、主なる神は義の神であり、罪をことごとく憎み、どんな些細な罪も必ず処罰
するお方であることを忘れてはなりません。罪人である私たちに知らされた福音はここに
あります。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもた
らす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからで
す」とあるように、福音を自分のためであると受け入れるなら、すなわち神の御子、十字
架で死なれたイエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、罪は赦されます。罪を赦さ
れた私たちには、さばくべき罪はないと見なされるのです。
しかし神の御子を信じない者は、犯した罪が赦されないまま残っており、罪に向けられ
ている神の怒りはそのまま、罪を抱えたままの罪人に及ぶのです。主イエスを信じる前の
私たちは、すべてこのような者たちでした。神の怒りが向けられていました。御怒りを示
してご自分の力を知らせようと望んでおられる、その対象者だったのです。滅ぼされるは
ずの怒りの器であった私たちを、豊かな寛容をもって耐え忍んでくださったとあります。
ここに神のあわれみが示されています。私たちはあわれみの器として召されました。
23節。私たち人間は、アダムの罪の性質を受け継いでいる、生まれながらの罪人です。
私たちはこれまで、数々の罪を犯してきました。「義人はいない。一人もいない」と断言
されているとおりです。私たちの実態、現実です。滅ぼされるはずの怒りの器であった私
たちを、神は豊かな寛容をもって耐え忍ばれて、ご自分の豊かな栄光を知らせるために、
あわれみの器としてあらかじめ備えてくださっていたのです。ここに、私たちの血筋や意
欲、これまで積み上げてきた業績などに関係なく、神の選びを見せられます。
パウロはエペソ人への手紙に「神は、世界の基が据えられる前から、この方(キリスト)
にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」と述べましたが、
まさに私たちキリスト信仰者は、天地創造の前から、あわれみの器として選ばれていたの
です。だから私たちに誇りはありません。自分がすぐれていたからとか、人よりも多くの
善行をしてきからとか、そのような誇れるものがあるので救われたのではないのです。
逆に私たちの多くは、罪に汚れていて、様々な悪を行ってきました。滅ぼされて当然の
罪人であったことを認めざるを得ません。神の怒りに晒されていたのです。しかし神は、
豊かな寛容をもって耐え忍んでくださいました。私たちが自分の罪を認め、悔い改めて、
主イエスの十字架によって差し出された罪の赦しを受け入れるまで、私たちに対する滅び
を猶予してくださっていたのです。しかもご自分の豊かな栄光を知らせるためにです。
私たちは創造者である神に造られた被造物です。造られた者は、造り主に対して、その
みわざに何かを言う権利はありません。私たちは主イエスを信じる信仰が与えられた。罪
の赦しを受け取り、罪からの救いに与ることができた。永遠のいのちが与えられ、新しい
天と新しい地の再創造の時には、そこで永遠を歩むのです。神の一方的な恵みです。ただ
感謝あるのみです。自分の救いを喜びましょう。神の栄光をほめたたえましょう。
24節。私たちキリスト信仰者はあわれみの器として神に召されました。ユダヤ人の中か
らだけでなく、異邦人の中からも召されています。ここにアブラハムに告げられた約束の
実現があります。アブラハムの信仰に倣う、全世界の人に、神の祝福が注がれるのです。
ユダヤ人だから、異邦人だからということでもありません。すべての人は罪を犯して、神
の栄光を受けることができなくなりました。しかし神の恵みにより、キリスト・イエスに
よる贖いを通して、価なしに義と認められる道が備えられました。アブラハムが神を信じ
たので神の祝福に与ったように、私たちも神を信じたので神の祝福に与ったのです。
主イエスを信じる信仰によってのみ救われるとは、このようなことのゆえです。創造者
である神は、私たちを、世界の基が据えられる前から、キリストにあって選び、神に属す
る者として聖としてくださいました。その選びのゆえに、私たちは主イエス・キリスト信
じる信仰が与えられ、十字架による罪の赦しを受け取り、神の子どもとなる特権に与りま
した。すべては神の一歩的な恵みによることです。私たちはあわれみの器として召された
ということです。このことを感謝し、さらに主の御前でへりくだり、与えられた信仰を歩
む者として自分を整えましょう。
12章1~2節でパウロは招きました。「私は神のあわれみによって、あなたがたに勧め
ます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。
それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。む
しろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころ
は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになり
ます」
私たちは、神の一方的な恵みの中を、へりくだって歩むことが大事です。与えられた救
いの中を歩み続けることを求めるのです。




コメント