2026年7月12日 礼拝「ピリピ教会のための祈り」ピリピ1:3~11
- 7月12日
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前回私たちは、6節までの箇所から、パウロとピリピの教会の親密な関係について確認
しました。パウロは、ピリピの聖徒たちを思うたびに、神に感謝し、彼らのために祈るた
びに、いつも喜びをもって祈っていると述べています。そしてピリピの聖徒たちの間で良
い働きを始められた方に目を向けさせます。その方は主イエスであり、ご自分が再び来ら
れる日までに、その良い働きを完成させてくださると確認させたのです。6節。
宣教の主は、福音宣教と罪からの救いという良い働きを始め、それを完成させてくださ
います。ピリピの町での具体的な働きでは、パウロを導き、ピリピの町で福音を宣べ伝え
させました。リディアを救い、その家族をも救いに導き、リディアの家を開放する思いを
与え、福音宣教の拠点とし、主イエスを信じる信仰者の群れ、教会を建てられました。そ
うしてピリピの町で福音が伝えられ、一人でも多くの人たちを救いに導き、罪の赦しと罪
からの救いを生きる者とならせるように、恵みをもって祝福されたのです。
私たちは、主のみわざは、主ご自身が完成させてくださると信じるので、自分を主に委
ねます。目に見える状況がどのようであっても、主のみわざは推し進められます。みここ
ろの計画は成就します。だから4節。パウロは状況に左右されることなく、ピリピの聖徒
たちのために、いつも喜びをもって祈るのです。私たちも同じです。主の恵みと平安があ
ることを覚え、そこにとどまり続けて、喜びをもって祈り、感謝するのです。
ピリピの教会に生じていた問題の一つは、一つであることを保てない人たちがいたこと
です。4章2~3節でパウロは「ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたが
たは、主にあって同じ思いになってください」と記しました。ユウオディアとシンティケ
という教会を代表するふたりの女性は、思いを一つにできない事情があったのです。具体
的な事情や状況は記されていませんが、パウロは、この挨拶の部分で、そこに解決の糸口
を指し示そうとします。この問題に直接触れるのは後にして、信仰の原点に引き戻そうと
するのです。主にあって一つにされた私たちであるという霊的事実です。
5節「福音を伝えることにともに携わってきた」7節「私とともに恵みにあずかった」
9節「あなたがたの愛がいよいよ豊かになり」10節「キリストの日に備えて非難されると
ころのない者となり」11節「義の実に満たされ、神の栄光と誉れが現されますように」主
イエスを信じる信仰によって与えられた、祝福と恵みの立場を確認させるのです。
7節。あなたがたすべてについて、私がこのように考えることとは3~6節であり、そ
れは正しいとパウロは言います。ピリピの聖徒たちは、最初の日から今日まで、福音を伝
えることに、パウロとともに携わってきました。このことをパウロは喜んでおり、神に感
謝しています。そしてピリピの町で、福音宣教、救いのみわざという良い働きを始められ
た方は宣教の主イエスであり、主ご自身が、その良い働きを完成させてくださるのです。
私たち自身の救いを振り返ると、本当にそうだと思います。私たちも福音に触れ、誰か
が私たちに主イエスを知らせ、そうして救いに与ったのですが、与えられた救いを完全に
生きるまで、霊的な成長を遂げるには時間がかかっています。自分の努力や意欲では、霊
的成長を遂げることは難しいと感じます。しかし人にはできないことでも、神にはできる
のです。成長させてくださる神が、私たちを霊的に成長させてくださるからです。
キリストのからだとしての教会に集められたキリスト信仰者たちには、一致が与えられ
ています。主イエスを信じる前の私たちは、自己主張が強く、自分の考えや価値観を人に
押しつける者でした。そのような私たちが、古いままの振る舞いをするときには、与えら
れた一致を保つことは難しく感じられます。しかし御霊の一致を与えられた方は、御霊の
一致を保たせてくださるのです。この点においても、完成させてくださるからです。
7節。ピリピの聖徒たちは、パウロが投獄されているときも、福音を弁明し立証してい
るときも、パウロとともに恵みに与った人たちでした。主の良い働きをともに担うという
主の恵みです。そのことを、心に留めていると言います。
8節。パウロはピリピの聖徒たちへの思いを率直に述べます。キリスト・イエスの愛の
心をもって、どんなに慕っているか、その証しをしてくださるのは神ですと、まで言うの
です。パウロとピリピの聖徒たちにある親しい関係を見ることができます。
9節。パウロはピリピの聖徒たちのために祈っています。あなたがたには神の愛が与え
られている。その愛をいよいよ豊かにするようにとの招きの祈りです。そのためには知識
とあらゆる識別力が必要です。正しい知識は神を正しく恐れることから得られます。「主
を恐れることは知識の初め」「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟る
ことである」と箴言にあるように、神を正しく恐れることが正しい知識を得る秘訣です。
神のことばで教えられ、神のことばを生きることです。「神のことばは生きていて、力が
あり、両刃の剣よりも鋭く、心の思いやはかりごとを見分けることができます」とあると
おりです。神のことばによる識別力です。神を正しく恐れて得られる正しい知識とみこと
ばによる識別力によって、神の愛はいよいよ豊かにされます。
10節。神によって与えられたあなたがたの愛がいよいよ豊かになり、大切なことを見分
けることができますようにと、パウロは祈っています。キリスト信仰者たちが、それぞれ
に培ってきて、身につけている価値観や意見は違っているでしょう。一人ひとりの主張は
異なります。ことばの理解も違います。私たちの違いはいろいろあるでしょうが、与えら
れている御霊による一致を保つ努力を惜しんではなりません。一致を作り出すのではあり
ません。主イエスを信じる信仰によって与えられている御霊の一致を保つのです。
私たちが大切なことを見分けることができたとき、キリストの日、主イエスが再び来ら
れる日は、私たちキリスト信仰者にとっては喜びの日であり、光栄となるのですが、主イ
エスを信じなかった者にとってはさばきの日になります。その日に、純真で非難されるこ
とのない者となるように、とパウロは祈るのです。私たちが目指すのも同じです。救いに
おいても、福音宣教においても、教会の一致を保つことにおいても、純真で非難されるこ
とのない者となることを、私たちは目指しているのです。
11節。さらにパウロは、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされるよう
にと祈ります。神に義と認められるのは、人となられた神、神の御子イエス・キリストを
信じた者、主イエスの十字架によって備えられた罪の赦しを受け取り、罪から救われた者
たち、すなわち主イエス・キリストにある者です。神が義であり、神が義とすることが義
です。神の義に満たされるようにと、パウロは祈るのです。
主イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい」と私たちを招きます。私たちは神が義
とされることを、神のことばによって知ることができます。神の義を求めて、神の義に満
たされることが大事です。私たちが神の義に満たされることで、神の栄光と誉れが現され
るのです。パウロはピリピの聖徒たちのために、このように祈りました。私たちが求める
最終目標はここに、私たちを通して、神の栄光と誉れが現されることにあります。
パウロのピリピの聖徒たちのための祈りを確認しましょう。パウロがピリピの町で福音
を伝える主の働きに用いられ、主イエスを信じる信仰によって救われる人たちが起こされ
ました。ピリピの聖徒たちは、パウロを用いての主の良い働き、福音宣教と救いのみわざ
に参与することを求めて、パウロの福音宣教を経済的に支えました。そのようなピリピの
聖徒たちのためにパウロは祈ったのです。ピリピの教会では、二人の有力な婦人信徒が一
つ思いになれないという悲しい現実がありました。そのことをも念頭にあっての祈りと思
われます。まず第一に、ピリピの聖徒たちを思うたびに神に感謝していると伝えます。
次に、ピリピの聖徒たちのために祈るたびに、といつも祈っていること、しかも喜びを
もって祈っていることを伝えます。ピリピの聖徒たちが、パウロを用いての主の福音宣教
の最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきた事実を述べて、感謝し
ていることを伝えました。
何よりも、良い働きを始められた方は、主イエス・キリストであり、その良い働きを完
成させてくださるのも、主イエス・キリストであると、確認させます。
ピリピの聖徒たちは、パウロがどのような状況にあっても、主の恵みを共有してきた人
たちであること、を心に留めていると伝えます。
それらのことを確認させた上で、ピリピの聖徒たちのための祈りを記すのです。ピリピ
の聖徒たちに与えられている神の愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かに
されることで、大切なことを見分けることができるようになること、キリストの日に備え
て、純真で非難されるところのない者となること、イエス・キリストによって与えられる
義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されることを祈るのです。
これらの祈りは、私たち自身のための祈りであるとも言えます。私たちは神の自分への
愛を知っています。主イエス・キリストが十字架でいのちを捨てるほどの愛で愛してくだ
さっていることを、私たちは体験的に知っています。主イエスを信じて、十字架による罪
の赦しと罪からの救いを受け取った私たちです。神の自分への愛、主イエスの自分への愛
を私たちは味わい知っています。神に愛されている私たち、主イエスに愛されている私た
ちですから、神を愛し、主イエスを愛する者とされています。神の自分への愛が、自分の
神への愛もが、そして神の家族とされた聖徒たちへの愛が、いよいよ豊かになること、そ
して神の義の基準での大切なことを見分けることができることを祈り求めるのです。
そうして、主イエスの再臨の日に備えて、純真で非難されるところのない者へと整えら
れて、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、私たちを通して、神の
栄光と誉れが現される、そのような者へと整えられたいのです。
パウロはピリピの聖徒たちのために祈りました。その祈りが聖書に記されました。それ
は私たちのための祈りでもあるからです。私たちの間で良い働きを始められた方、主イエ
ス・キリストは、それを完成させてくださいます。救われた私たちが、その救いを生きる
信仰者へと整えられて、私たちを通して神の栄光と誉れが現される、そのようなお互いと
なることを、互いに祈り合う者でありたいのです。祈る者は、神の恵みを体験的に知るこ
とができます。父なる神との、霊的で、人格的な交わりだからです。そうして、私たちの
祈りは、神の御前への香となり、ささげ物として立ち上るのです。
父なる神は、私たちの個人での祈りを、心を一つにして祈り合う祈りを、喜んで受け入
れてくださいます。パウロに倣って、私たちも、祈りを積む者とされたいのです。




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