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2026年6月28日 礼拝「表面的な解決で終わらせない」ルカ17:11~19

  • 6月28日
  • 読了時間: 9分

 私たちは日々の生活の中で様々な問題にぶつかります。そしてそれらの問題に解決が与

えられることは本当に嬉しいことです。ただそれぞれの問題には、表面に現れた具体的な

問題とは別に、その根となる、それこそが解決されるべき根源的な問題が潜んでいること

があります。表面に現れた問題が解決されることは本当に喜ばしいことですが、もし根源

的な問題が潜んでいるなら、その解決こそが必須です。

 今日の箇所には、ツァラアトに冒された人が出てきます。ツァラアトとは、皮膚に現れ

る場合には、ハンセン氏病(らい病)に似た病気ですが、家の壁や衣服にも現れることがあ

るので、ハンセン氏病とは違う病気と言えます。ツァラアトが癒されたとき、つまりツァ

ラートガ消えた時は、祭司が判断することで、社会復帰ができます。

 今日私たちは、10人のツァラアトに冒された人が主イエスに助けを求め、その病が癒さ

れた出来事を通して、表面的な解決で終わらせずに、最も必要となる主なる神との関係が

正されることの重要さを確認したいのです。この出来事は、主イエスとその一行がエルサ

レムに上る途中、ガリラヤとサマリヤの境で起こりました。ユダヤ人とサマリヤ人とは犬

猿の仲であり、互いに敵対し合っていたのですが、ツァラアトに冒されたという共通の境

遇の中、彼らは一緒に生活していたということです。

 12~13節。この10人の人たちは、主イエスが通られると分かって、遠くから声を張り

上げ「イエス様、先生。私たちをあわれんでください」と叫びました。彼らは、ナザレの

イエスは必ず自分たちをあわれみ、ツァラアトを毛嫌いすることなく、癒やしてくださる

に違いないと確信していたのです。その求めに対して、主イエスははっきりと応えてくだ

さいました。14節。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と。

 この命令ですが、ツァラアトは、宗教的に汚れていると見なされ、社会生活が制限され

ていました。ツァラアトに冒された人は、人が近づいてきた時、自分は汚れていると声高

く叫び、人が間違って自分に触れることがないようにと、いつも言い現わすことになって

いたのです。ツァラアトは不治の病であり、医者も見放していたけれど、稀に消えること

がありました。そしてツァラアトが消えたと思ったなら、自分の身体を祭司に見せ、その

証明を得て社会生活に復帰できたのです。主イエスのここでの命令は、自分がきよくなっ

たことを祭司に見せ、その上で社会復帰をしなさいということです。

 再度14節。彼らがきよくなったのは、つまりツァラアトが消え、癒やされたのは祭司に

自分のからだを見せに行く途中であったことが分かります。普通祭司に見せに行くのは、

自分の癒やされた身体です。ツァラアトが消え、癒やされたことが分かって、その証明を

得るために祭司の所へ行くわけです。彼らのツァラアトは、主イエスが命じた時点では、

まだきよくなっていなかったということが分かります。

 さて、皆さまがこれら10人の一人だったとして、この主イエスの命令に、どのように応

答するでしょうか。これら10人と同じように、主イエスのことばを信じて、まだ癒やされ

ていない身体のままで、祭司のもとに向かって行くでしょうか。主イエスを信じるとは、

この人々のように、主イエスのことばを信じて、一歩踏み出すということです。

 ツァラアトの検査は村ではできません。聖所で行なうことが定められていました。サマ

リヤ人はゲリジム山にある聖所に行き、ユダヤ人はエルサレムの神殿に行くのです。ガリ

ラヤとサマリヤの境からゲリジム山までは、直線距離で40kmほど、エルサレムまでは

80kmほどあります。私たちはどうでしょう。40km、あるいは80kmの道のりを歩こうと

するかという問いかけです。癒やされたなら、どこまででも喜んで行くでしょう。しかし

まだ癒やされていない、癒やされるかどうか分からない状況で、聖所まで行くかと問いか

けてみると、ちょっと心許ない思いがします。これらの10人は、まだ癒やされていない身

体で、主イエスのことばに従って、それぞれに聖所に向かって歩き出したのです。

 ここに、彼らのイエスを信じる信仰がありました。ナザレのイエスのことばにすがって

出かけたのです。信じ続けた結果、彼らはイエスの神としての力を味わい、癒やしを体験

したのです。本当にすばらしい信仰です。彼らはそれぞれイエスの力をほめたたえ、イエ

スを信じることのすばらしさを深く味わい知ったに違いありません。しかしこの後、彼ら

の主イエスとの関わり方が異なっていくのです。

 14節の時点では、10人とも同じでした。彼らはイエスのことばを信じて、自分のから

だが癒やされていないのに、ツァラートに冒された身体のままで祭司のところへと向かい

ました。彼らは祭司に見せに行く途中で、自分が癒やされたと知りました。イエスのこと

ばを信じて良かった、イエスが癒やしてくださったと心から感謝したのです。そしてその

中の一人、サマリヤ人だけが、自分の癒やし主である主イエスのもとに戻ってきました。

 他の9人はどうしたのでしょうか。彼らは祭司のもとに向かい続けたと思われます。エ

ルサレムの神殿へ、自分の癒やされた身体を見せるために向かっていき、社会復帰ができ

ることを喜び、再び自分の力で生活できることを望み見て、ただそのことだけを考えて祭

司のもとに走ったと想像できます。

 この9人のユダヤ人にとって、ナザレのイエスは信じた通り、ツァラアトをも癒やす癒

やし主であり、病苦からの救い主でした。しかしそれだけでした。彼らには、どのような

病気をも癒やすお方としてのイエスは必要であっても、それだけだったのです。言い換え

るならナザレのイエスでなくても、自分の病気を癒やすことのできる存在であるならだれ

でも良いということであり、たまたまそれがイエスであったというだけです。

 しかしこのサマリヤ人は、ツァラアトが癒やされたことを通して、ナザレのイエスを自

分の主とすべき存在であり、自分を真に生かす救い主であると認めました。彼は自分にな

された神の大いなるみわざを覚え、主なる神を大声でほめたたえながら引き返して、主イ

エスのもとにひれ伏したのです。15~16節。彼は主イエスを神から遣わされたお方とし

て、自分の救い主、自分の主として受け入れました。たしかに社会復帰ができるというこ

とは、素晴らしい恵みであり、祝福です。しかしそれは一時的なものでしかないことを、

このサマリヤ人は気づいたのです。彼は、この世の一時的な祝福以上のもの、すなわち主

イエスとの個人的な、人格的な交わりを通して与えられる永遠の祝福を求めたのです。

 主イエスは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があ

るでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」と語

られました。いのちの代わりになるものは何もありません。いのちほど大切なものは無い

からです。永遠のいのちは、それ以上です。主イエスを自分の主とあがめ、主イエスとの

霊的で、人格的な交わりをするいのちであり、永遠の祝福に与らせます。この世で栄華を

極め、全世界を支配する権力者になったとしても、それは地上生涯だけの栄華であり、永

遠の祝福に比べたら無いに等しいのです。すべては失われてしまうのですから。

 10人が癒やされました。10人ともナザレのイエスを特別な存在として信じる信仰を持っ

ていて、その信仰によってツァラアトの癒やしが与えられ、社会復帰への道が開かれまし

た。9人はそれで満足しました。彼らは自分の望みをかなえてくれるイエスに会えて幸運

でした。それで終わりです。ツァラアトの癒やしを感謝しても、自分の全人格を賭けて、

自分の全存在の主として、主イエスと関わろうとはしなかったということです。

 難病が癒されることは幸いです。絶望の中に沈んでいたのに、希望に輝く人生を歩み出

せることは幸いです。しかしいつまでも続くわけではありません。また病気になります。

新たな困難にぶつかります。違う問題が起こり、心の満足は続かず、満たされない思いが

生じてきます。その度ごとに不安になり、落ち込み、そして表面的な解決を求める、その

繰り返しをするのでしょうか。ツァラアトを癒やすことのできるお方は、私たちの全生涯

を真の祝福と恵みで満たし、私たちを感謝と喜びに溢れさせる全能の神です。このお方を

自分の主と仰いで生きる幸い、永遠の祝福をこそ、自分のものとしたいのです。

 ツァラアトを癒やすお方は、十字架でいのちを捨てた救い主です。あらゆる病のすべて

を癒やすお方は、私たちの罪を赦し、私たちを罪から救う救い主です。病気の癒やし、困

難な状況からの救出はすばらしく、喜ばしいことです。しかしこの世の一時的な解決で

あって、永遠のいのち、永遠の祝福と比べるなら些細なことです。私たちは表面的でな

い、根源的な救いを、根源的な解決をこそ、主イエスに求めるべきです。

 17~18節。神をあがめる者とするために、主イエスはツァラアトを癒やされました。

これら10人の信仰を引き出す命令を与えました。その中の9人は、表面的な救い、病気が

癒やされるという物質的な解決を見いだすことにだけ、その信仰を使ったのです。主イエ

スを自分の主とする、そのそば近くまで来ていながら、根源的な救いを得るために、信仰

を働かせることをしませんでした。本当に残念です。19節。主イエスからの祝福のことば

は得られませんでした。あなたを救ったとは、神との関係が正されたという宣言、主なる

神はあなたの神となり、あなたは神のものとなったという宣言です。

 ツァラアトを癒やす全能の神、主イエスは十字架で、私たちへの限りない愛、いのちを

捨てるほどの愛を示されました。私を愛し、あなたを愛して、罪の赦しと罪からの救いを

与えるために、永遠のいのちに生かすために、十字架での身代わりの処罰を受けてくだ

さったのです。この主イエスの愛を喜び、受け入れることで、私たちはだれもが、主イエ

スとの人格的な、個人的な関係に入れられ、神のいのちに生き、永遠の希望、永遠の祝福

に与るのです。その時私たちは、この世でどれほどの困難に置かれても、病気であっても

健康であっても、裕福であっても貧困であっても、順境であっても逆境であっても、いつ

も変わらない平安と希望を覚えて、喜びと感謝のうちを生きる者と整えられるのです。

 私たちはいろいろな必要を感じて主イエスの許に来ます。そして主イエスはその必要を

満たしてくださいます。それは喜ばしく、感謝です。しかしそれで満足して、永遠の祝福

を求めないなら、全世界を手に入れること以上の、絶大な損失であると覚えたいのです。

主イエスとの、個人的で、人格的で、親密な交わりを生きる恵みが与えられているのです

から、この恵みを十分に味わおうではありませんか。日々みことばに親しみ、祈りの中で

霊的な交わりを深め、この世でのどのような状況にも揺れ動かされることのない、永遠の

平安と希望に生きる私たちとされましょう。

 表面的な問題の解決は、根源的な解決を得るための入口でなければ、その解決は益をも

たらすことにはならないと覚えたいのです。


 
 
 

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