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2026年6月21日 礼拝「パウロの大きな悲しみ」ローマ9:1~13

  • 5 日前
  • 読了時間: 10分

 8章の終わりでパウロは、どのような困難に見舞われても、死でさえも、私たちの主キ

リスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない、これらすべてにお

いても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者ですと高らかに

宣言しました。しかし9章では、大きな悲しみがあると吐露するのです。それは同胞イス

ラエル人の多くが、約束のメシヤとして来られた方、人となられた神である救い主、主イ

エスを拒んでいることで、主なる神に敵対しているからです。そしてその姿は、主イエス

を信じる前のパウロ自身です。パウロは同胞の救いを心から願うのです。

 9~11章でパウロはイスラエルについて言及します。民族としてのイスラエルと、真に

神の民として歩もうとするイスラエルです。私たちはこの9~11章から、イスラエルにつ

いて整理し、教えられたいと考えています。

 主イエスを信じる前のパウロは、主イエスとキリストの教会に対して、強硬に反対し、

神への熱心のゆえに、キリスト信仰者への迫害を続けていました。神は、そのようなパウ

ロあわれんで、復活された主イエスに会う機会を備えてくださったのです。パウロは、直

に主イエスから声をかけられ、十字架で処刑されたナザレのイエスは約束されていたキリ

ストであると知らされました。そうしてパウロは、自分の間違いを認めて悔い改め、主イ

エス・キリストを自分の救い主と信じ、受け入れたのです。そうしてパウロは、主イエス

からの新しい使命を授けられました。主イエスの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子

らの前に運ぶ、主イエスの選びの器となることです。使徒の働き9章にあります。

 パウロは、特に異邦人の使徒という立場を授けられました。パウロはその働きを忠実に

なし、各地にキリストの教会が建てられていきました。異邦人が救われていく中で、パウ

ロには同胞であるユダヤ人に対する強い思いがありました。そしてその思いをローマにい

るキリスト信仰者たちにも共有してほしいと願って記すのです。ローマの教会には、ユダ

ヤ人キリスト者と異邦人キリスト者がともに集まっていました。

 1~2節。私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いませんと、これらか書き記す

ことは嘘偽りのない本心であると強調しています。同胞ユダヤ人の多くが主イエス・キリ

ストを拒んでいるため、滅びに向かっている事実を前にして、大きな悲しみがあり、心に

は絶えず痛みがあると正直に告白します。異邦人への福音宣教が進展しているにもかかわ

らず、ユダヤ人への福音宣教が進展しない現状への悲しみ、痛みです。

 3節。パウロは自分の同胞イスラエル人への心情を赤裸々に口にします。彼らが主イエ

ス・キリストを信じて救いに与ることができるなら、自分はキリストから引き離されて、

のろわれた者となってもよいとさえ思っていると。パウロは、どんな被造物も、主イエ

ス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないと宣言しました。その

パウロが、キリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っていると

言うほどに、同胞イスラエルへの救霊の思いは強いということです。

 4~5節。イスラエル民族は神に特別に選ばれ、特別な使命を与えられた民です。世界

のあらゆる国民に主の祝福をもたらす祝福の民として選ばれました。主なる神は、彼らの

父祖アブラハムを選び、召し出し、祝福を約束しておられます。「そうすれば、わたしは

あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなた

は祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をのろ

う。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と。神の民イスラエルは、地のす

べての部族、民が、神の祝福に与るために立てられた祝福の器なのです。

 イスラエル民族は特別な民として選ばれました。「子とされることも、栄光も、契約

も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです」とパウロは記します。子とされると

は、神の民としてのアイデンティティーが与えられるということです。主なる神がイスラ

エルの神となり、イスラエルが神の子とされるという特別な関係が与えられたのです。

 栄光とは、神の臨在が約束されているということです。主なる神はモーセに対して、わ

たしの臨在があなたとともに行くと約束されました。栄光の主がともにおられ、ともに歩

んでくださる、その栄光がイスラエルに与えられています。

 契約とは、主なる神がイスラエルと結ぶ特別な関係です。イスラエルは神の民とされ、

主なる神がイスラエルの神となる契約に入れられました。主なる神はモーセを通して十誡

を提示し、イスラエルはその神の戒めを守ると応答したことで契約が結ばれました。

 律法の授与とはそのままです。神の民として歩むという意思表示を受けて、主なる神は

モーセを通して、イスラエルが神の民として歩むための教えと定め、掟を律法として定め

られました。律法が授与されていることが、神の民であることの特徴です。

 礼拝もとは、イスラエルは礼拝共同体として召されたということです。主なる神への礼

拝共同体として歩むための詳細な規定が定められました。主なる神の臨在の象徴である幕

屋の建設、神と民との仲介者としての大祭司や祭司、様々なささげ物の規定、そうしてそ

の働きをさせるためにレビ部族を選任など、礼拝共同体として歩むための事細かな規定が

定められたのです。神の民イスラエルには、主なる神以外に、ほかの神があってはならな

いと、偶像礼拝が厳しく禁止されました。しかし私たちが歴史を知っているとおり、イス

ラエルの民は神に背いて偶像礼拝に走り、礼拝共同体であることを拒絶したことで、神の

民としての存在理由を失い、エルサレムは陥落し、神殿も2度、破壊されたのです。

 約束もとは、預言者たちによって告げられた数々の希望と言えます。彼らのものですと

ありますが、いかにイスラエルに、神からの特権が与えられているかを確認させます。パ

ウロは、神がイスラエルを特別に選び、多くの恵みを与えたことを強調します。

 父祖たちもと言うことで、血筋においてイスラエルは特別であると確認させます。キリ

ストも、肉によれば彼らから出ているからです。キリストは、アブラハムの子孫として、

ダビデの子孫として、イスラエルから、人間として誕生しました。と同時にパウロは、キ

リストは神そのものであることも強調します。キリストは万物の上にありとは、被造世界

のすべてを、その権威の下に従わせる主権者であるとの宣言です。だから、とこしえにほ

むべき神ですと告白するのです。キリストは人となられた神です。

 神の計画はアブラハムとその子孫によって、すべての国民が主の恵みと祝福に与るとい

うことでした。しかしイスラエルの民は神に敵対する者となりました。神のひとり子キリ

スト・イエスを拒み、十字架につけて殺したのです。主なる神が罪人を救う救い主として

遣わしたイエスを、彼らは拒みました。パウロはこの事実を前にして、激しく悲しむので

す。彼らの反抗によって、神のことば、神の契約は無効になったのでしょうか。

 6節。神の民イスラエルの多くは主イエス・キリストを拒んでいます。その事実を前に

して、パウロは、神のことばは無効になったのではありませんと断言します。なぜでしょ

うか。それは、イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないという霊的真理がある

からです。イスラエルから出た者とは、イスラエル民族の者たちという意味です。イスラ

エルではないとは、まことの神の民ではない、礼拝共同体の一員ではないということで

す。イスラエルは礼拝共同体として召されました。主なる神のみを信じ、神にのみ聞き従

おうとする人たちが、イスラエルです。

 私たちは9~11章を読み進める中で、そこで言及されているイスラエルが、民族として

のイスラエルなのか、礼拝共同体の一員とされた神の民なのかを、文脈で判別する必要が

あります。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないとの厳粛な宣言を、私たち

も主なる神からのことばとして、霊的真理として、真摯に受け止めることが大事です。

 イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないとは、イスラエル民族であっても、

神の民であるとは限らないという宣言です。ヨハネの福音書には、血によってではなく、

肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたとあります。

神の一方的な恵みのゆえに、私たちは救われるのです。ユダヤ人だから、ユダヤ人ではな

いからではなく、ユダヤ人であっても、ユダヤ人でなくても、神が人として遣わされた救

い主、十字架で処刑された神の御子、主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ

ることで、礼拝共同体としてのイスラエルに加えられるのです。旧約時代でも、新約時代

でも、信仰による神への応答が神の民、神の子どもとされる条件です。

 7節。同じ霊的真理をアブラハムの子どもに当てはめて言い換えます。アブラハムの子

どもたちがみな、アブラハムの子孫ということではありませんとあります。アブラハムの

子どもたちとは、イシュマエルであり、イサクです。また妻サラが死んだ後、妻としてケ

トラを迎えて、彼女はアブラハムに6人の子どもを産んでいます。つまりアブラハムの子

どもたちは8名いるけれど、アブラハムの子孫はイサクだけと言うのです。

 ここで、アブラハムの子孫とは、アブラハムに与えられた神の民としての祝福を受け継

ぐ子孫という意味であり、それはただひとり、イサクです。イサクとイシュマエルの違い

は8節です。肉の子どもと約束の子どもの違いです。肉の子どもとは、人の思惑によって

誕生したイシュマエルであり、約束の子どもとは、9節にあるように、神が語られたこと

ばを信じる信仰によって、神の全能の力が働くことで誕生したイサクです。

 10節。またイサクの子孫についても同じであるとパウロは言います。妻リベカは双子の

兄弟を胎に宿しました。兄エサウと弟ヤコブです。11~12節。リベカは、胎内で子ども

たちがぶつかり合うようになり、神のみこころを求めたときに「兄が弟に仕える」と告げ

られたのです。ここで「神の選び」「選びによる神の計画」が取り上げられます。

 エサウもヤコブもまだ生まれていないときに、神はヤコブをイサクの子孫として選ばれ

たのです。神の特別な祝福を受け継ぐ子孫はヤコブになるとの宣言です。選びによる神の

計画は、人の行いによって進められるのではなく、召してくださる方によって進められる

ということを、私たちも信仰によって受け止めましょう。

 13節。神の宣言です。主なる神は、ご自分の計画を遂行するために、ヤコブを選びまし

た。ヤコブが人間的にすぐれていたからではありません。人間的な資質とは関係なく、神

の選びによって、ヤコブは、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ者とされたのです。

 パウロは、神の選びを確認しつつ、多くの同胞イスラエル人が、十字架で処刑されたナ

ザレのイエスを拒絶して、滅びに向かっている事実を前にして、大きな悲しみ、心の痛み

を絶えず覚えて祈っています。彼らがナザレのイエスを約束のメシヤ、キリストであると

受け入れ、十字架での身代わりの死を自分の罪を赦すためであると信じて、救いに与るよ

うにと、祈っています。

 私たちも、同胞の救いのために、祈りましょう。自分にできることを思いながら、日本

人ために、石垣島民のために、家族、親族、友人、知人のために、その救いを祈るのです。


 
 
 

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