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2026年6月7日 礼拝「キリストはダビデの主」ルカ20:41~44

  • 6月7日
  • 読了時間: 7分

 ルカの福音書から、主イエスの十字架への道を読み進めています。受難週に入り、その

火曜日には、宗教指導者たちが主イエスに問いかけ、主イエスが答えたことが記されてい

ます。40節に、彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかったとあり、その後、

主イエスが逆に問いかけたのが今日の箇所です。今日私たちは、主イエスの問いかけを通

して、私たちも知らなければならない重要な真理を確認します。それは、キリストはダビ

デの子であるとともに、ダビデはキリストを自分の主と告白したということです。キリス

トはダビデの主です。そして私たちにも、キリストは自分の主であるお方です。

 41節。主イエスの問いかけです。どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うので

すかと。ユダヤ人はだれもが、約束されたメシヤが来られることを待ち望んでいました。

メシヤ、キリストはダビデの子孫であることは、預言者たちを通しての神の約束です。メ

シヤ、キリストはユダ族から、ダビデの子孫として来られるのです。そのような意味で、

キリストはダビデの子です。

 しかし主イエスは、当時「ダビデの子」ということばが一人歩きし、人間中心の期待に

貶められていたので、あえてこの問いかけをしたということです。主イエスは、宗教指導

者たちとの対話を用いて、キリストについての真理、人とキリストとの正しい関係を示そ

うとしたのです。主イエスはキリストをどのように示されたのでしょうか。

 ユダヤ人が待ち望んでいるメシヤは、ダビデ王のように、イスラエルの国を再興し、支

配する王です。ダビデの子ですから、ダビデと同等の支配権を持つ、すぐれた統治者であ

る人間の王を、彼らは待ち望んでいました。現実的には、ローマ帝国の支配から解放する

王としてのメシヤ、独立した国を再び興す王です。彼らにとってキリストは、自分たちの

願いをかなえてくれる存在でした。自分たちの主とは考えていなかったのです。

 主イエスは、その間違いを正すために、詩篇からダビデの賛歌を引用しました。ダビデ

がキリストをどのように考えていたかを確認させるのです。42~43節は、本日の交読箇所

である詩篇110篇からの引用です。「主は、私の主に言われた」とあります。最初の主は

創造者である神、私の主とはメシヤ、キリストです。そして私とは、ダビデ本人です。新

約聖書の観点では、父なる神が、ダビデの主である、子なるキリストに言われたと言い換

えることができます。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの

敵を あなたの足台とするまで」と引用しています。

 神はキリストを、神の右の座に着かせます。この霊的真理を、ダビデが預言したことば

を用いて確認させたのです。神の右の座に着かせるとは、神としての権威を持つお方であ

るということです。キリストはダビデの子、つまり人ではなく、神としての権威を持つお

方であり、ダビデ自身が主とあがめるお方です。

 あなたの敵とは、主なる神に反逆し、敵対するサタンです。キリストはサタンに対して

も主権者として君臨するのです。ヘブル人への手紙には「キリストは、罪のために一つの

いけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは、敵がご自分の足台とされるのを

待っておられます」とあります。キリストは大祭司として神の右の座に着き、私たちのた

めにとりなしておられるのですが、神のさばきのときに、サタンをキリストに屈服される

ことが定められています。キリストはサタンの支配者として君臨します。

 パウロはエペソ人への手紙に「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、

キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました」と書き送って

います。キリストはすべてを支配する主権者です。すべてですから、私たちをも含むので

す。私たちは、キリストがすべてのものの上に立つかしらであると、自分のかしらである

と認めているでしょうか。

 さて、あなたは、主イエス・キリストを、自分にとってどのようなお方としているでしょ

うか。私たちは主イエスを信じて救われました。私たちは主イエスを、自分の救い主とし

ています。これは間違いのない事実です。罪の赦しを受け、罪から救われたのは、主イエ

スを自分の救い主と信じ、受け入れたからです。

 主イエスは人となられた神であり、私たちに罪の赦しを備えるために、十字架で罪の処

罰を受けてくださいました。主イエスに罪があったからではなく、罪が全くないのに、罪

を全く犯さなかったのに、全人類に罪の赦しを備えるために、全人類の罪をその身に負っ

て、身代わりに十字架で処刑されたのです。

 この十字架の身代わりの死は、私の罪のためであると信じ、受け入れたことで、私たち

は救われました。主イエスは救い主です。キリスト信仰者は、主イエスを自分の救い主と

しています。しかし、ここでとどまってはならないのです。自分の救い主とできたことは

本当に感謝です。しかし自分の救い主とするだけなら、私たちは自分中心の信仰生活にと

どまることになります。自分にとって喜ばしい状況が与えられるなら、主イエスを信じる

信仰は意味があり、喜ばしいと思えても、自分によって喜ばしくない状況に置かれるな

ら、主イエスを信じる信仰に意味はなく、喜ばしいとは感じられなくなります。これが、

主イエスを自分の救い主と信じ、受け入れることにとどまる悲しい現実です。

 私たちは主イエスを、自分の主としているかを問う必要があります。主イエスを、自分

の全領域において、自分のすべての営みにおいて、自分の主権者としているでしょうか。

この問いかけは重要です。自分中心の信仰にとどまるのか、神を中心にする信仰へと整え

られるのかの分かれ目だからです。

 パウロはローマ人への手紙に「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれ

ば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもので

す」と書き送りました。パウロはキリスト信仰者である者たちに、私たちは主のものです

と確認させたのです。私たちはこの霊的事実を自分のものとしましょう。

 私たちの地上生涯は、順婦満帆、すべてが安泰であるとは限りません。私たちの父とな

られた創造者である神、全能の神であり、全地の主であるお方は、私たちの地上生涯に豊

かな恵みを備えて、地上生涯を歩ませてくださいます。父なる神は、私たちの必要をご存

じであり、それを満たしてくださるお方です。

 しかしこの世の神であるサタンは、私たちに霊的な戦いを挑んできます。様々な誘惑で

神に聞き従うことを妨げ、罪を犯させようとします。様々な苦難を備え、神への信仰を揺

るがそうとします。父なる神は、それらの誘惑や苦難を許可されます。私たちの信仰をさ

らに確かにするために、誘惑や苦難にあうことを許すのです。

 そのようなときに、自分中心の信仰のままであるなら、私たちは主イエスを信じたこと

に益を感じられなくなり、信じても仕方ないのではと、不信仰に落とされます。しかし主

イエスを自分の主とあがめているなら、地上生涯が順風満帆であっても、逆風満帆であっ

ても変わりなく、自分の主である主イエスの主権に自分を委ねることで、右往左往させら

れることのない信仰の歩みを続けることができます。

 まさに「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」と高らかに主をほめた

たえる信仰者となるのです。キリストは、ダビデが自分の主とあがめたお方です。私たち

も同じです。主イエスを自分の救い主と信じ、罪の赦しを受け、神の子どもとされ、永遠

のいのちに生きる者となりました。そして私たちは、主イエスを自分の主とするのです。

この地上においても、次の世においても、キリストを自分の主とあがめて、主に信頼し、

主に聞き従って歩む歩みを確かなものとしましょう。

 皆さまは、主イエスを自分の主としているでしょうか。自分の全存在において、全領域

において、自分の主となっているかを確認し、なっていない領域があるなら、そこにおい

ても自分の主とするために、自分を明け渡すことが必要です。

 主イエスを信じた私たちですから、キリストを自分の主とし、主に従い通す信仰生活を

送りましょう。すべての営みで、主イエスを自分の主として従うのです。


 
 
 

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