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2026年5月10日 礼拝「祈りへの招き」エペソ6:18~20

  • 5月10日
  • 読了時間: 10分

 私たちキリスト信仰者は、主にあって、その大能の力によって強められます。10節の、

主にあって、その大能の力によって強められなさいという招きに応じることで強められる

のです。私たちキリスト信仰者は、悪魔との霊的格闘をしているのだから、神の大能の力

によって強められることが必要だということです。

 悪魔が私たちに戦いを挑む目的は、私たちの信仰を骨抜きにすること、私たちを、肉に

属する信仰者とする、つまり神と神のことばに聞くのではなく、自分の肉の頑張りで歩む

信仰者へと霊的状態を引き下げることです。そのために、私たちの肉の性質に戦いを挑ん

でくるのです。私たちは、肉の頑張りで信仰生活を送るのか、主なる神により頼んで信仰

生活を送るのか、人間的な誇りで信仰生活を送るのか、神をのみ頼って信仰生活を送るの

かの霊的格闘をしているのです。私たちは、神のすべての武具、神のパワードスーツを身

に着けること、神の全能の力によって強められることを求めるべきなのです。

 パウロは、祈りへの招きをします。彼自身も、よく人々のために祈っているし、自分の

ために祈ってほしいとも要請するのです。パウロほどの霊的指導者ならば、祈ってもらう

必要はないと考えます。人に祈られなくても、主の働きを立派に行うことができる指導者

であると思うからです。しかしパウロは祈ります。そして自分のためにも祈ってほしいと

要請するのです。そうして私たちキリスト信仰者を祈りへと招くのです。

 前回私たちは、神のすべての武具を身につけるようにと招かれました。ではいつ、どの

ように神のすべての武具を、真理、正義、平和の福音、信仰、救い、神のことばを身に着

けるのでしょうか。それが18節です。祈りにおいて身につけるのです。私たちは日々の祈

りにおいて、神の武具を身に着けるのです。御霊によって祈ることで、神のすべての武具

を身に着けるということです。この手紙でのパウロの最後の勧めは、祈りへの招きです。

 18節でパウロは4回「すべて」ということばを用います。すべての祈りと願い、すべて

の時、すべての聖徒のため、すべての忍耐を尽くして、です。どんなことをでも、どんな

に取るに足りないと思えることでも、すべての祈りと願いによって祈ります。私たちは、

私たちを愛してくださる、そして私たちが愛している父なる神に、すべてを打ち明けるこ

とができ、そして父なる神は、私たちのすべての祈りを喜んでくださるのです。

 すべての時に祈ります。どんなときにもです。嬉しい時、悲しい時、失敗した時、うま

くいった時、困難な時、挫折している時、絶望的になっている時にも祈るのです。そのま

まの思いや感情をぶつけ、その上で主のみこころを求め、導きを確認しつつ従うのです。

ひとり静かに時間を確保し、時を聖別して祈ります。また歩きながら、何かをしながら、

父なる神を思い、主イエスを思いながら祈ります。あらゆる時に祈るのです。

 自分のためばかりでなく、人のためにも祈ります。すべての聖徒、主にある兄弟姉妹が

祈りの応援を必要としています。自分自身も祈りの後方支援が必要です。

 そしてすべての忍耐を注いで、忍耐の限りを尽くして祈りなさいと招かれています。あ

きらめてはいけません。投げ出してはなりません。ひたすら祈り続けるのです。そしてそ

の祈りは、御霊によって祈るようにと招かれています。

 御霊によって祈るとは、心に住んでおられる助け主の聖霊に心の王座を明け渡して祈る

ということです。自分中心の祈りから解放されて、神を中心にしての祈りに、自分の要望

や欲求を神に押しつける祈りではなく、神のみこころを求めて、自分を神に合わせる祈り

に変えられることです。自分の現状をありのまま告白しつつも、父なる神が何を求め、ど

のように導こうとしておられるのかを知るために祈るのです。自分を神にささげ、神のみ

こころを知り、それに従うために祈るということです。

 自分が中心ではありません。自分は神によって何をするかと祈るのではなく、神は私を

通して何をなさるのかを確認するための、神を中心にする祈りです。その祈りの中で、神

の武具を身に着けていくのです。神の真理と神の正義を身に着け、平和の福音の備えを携

えて、神の和解の使者として整えられ、キリストの大使の役を果たすのです。神への絶対

的な信頼という信仰の盾を取り、罪からの救いという根源的で、キリストだけが与える唯

一の救いを確認し、御霊の与える剣である神のことばを受け取るのです。私たちは日々、

御霊によって祈る者へと整えられるようにと招かれているのです。

 19~20節。今パウロは獄中にいて、番兵がいつも見張っています。そのような中で彼が

祈り、また祈ってほしいと要請しているのは、釈放ではなく、生活環境の改善でもなく、

語るべきこと、福音の奥義を大胆に知らせることができるようにということでした。自分

が置かれている状況の変化ではありません。置かれているその状況の中で、語るべきこと

を語る、福音を大胆に語れるようにと祈り、そして祈りを要請しています。

 初代教会のキリスト者たちは、キリストを信じる信仰のゆえに、平和で、快適で、経済

的に安定した生活は望めませんでした。迫害を受け、いのちの危険にさらされながら、福

音に生き、福音を伝えたのです。秘訣は祈りです。使徒の働き4章29節に、キリスト信仰

者たちの祈りが記されています。脅かしの現実を踏まえて、みことばを大胆に語らせてく

ださいと祈るのです。脅かしを取り除いてくださいとか、敵対する者たちを罰して、迫害

を遠ざけてくださいではありません。人々を恐れるのではなく、迫害にひるむのでもな

く、みことばを大胆に語らせてくださいと祈ったのです。

 使徒の働き12章には、ペテロが捕らえられ、牢に閉じ込められた時、教会はペテロのた

めに熱心に祈り続けたことが記されています。大勢の人が集まってペテロのために祈って

いたとき、主は御使いを遣わしてペテロを救い出されました。解放されたペテロがみなが

集まっている家の門を叩いた時、彼らはペテロだとは信じなかったのです。彼らが祈って

いたのは、ペテロの釈放をではなく、ペテロが脅かしにひるむことなく、大胆に神のこと

ばを語ることができるようにと、祈っていたからではないでしょうか。

 これが初代教会のキリスト信仰者たちの祈りでした。そして私たちの祈りとすべき祈り

です。どのような状況に置かれても、そこで神のことばを生き、そして語るべき福音、語

るべき神のことばを大胆に語れるように、自分のために、他のキリスト信仰者のために祈

る祈りです。神が私を通して、神が兄弟姉妹を通して、みわざをなしてくださいと祈る者

へと整えられましょう。自分は神によって何をすべきかを考え、それを求めて祈るのでは

なく、自分が置かれた、また兄弟姉妹が置かれたその状況の中で、私を、兄弟姉妹を通し

て神がみわざをなされるようにと祈る、これが御霊によって祈る祈りです。その状況の中

で主がなされることに、自分のすべてを委ねれば良いのです。

 このような祈りを通して、私たちは神の武具を身に着け、その大能の力によって強めら

れます。私が完全に強められるためには、自分の誇りとするところ、人間的な頼みとする

ところを、捨てきることが必要です。これはパウロ自身の霊的な戦いでもありました。交

読したピリピ人への手紙3章で、パウロが告白しているとおりです。

 4~6節。パウロは生粋のユダヤ人としての血筋を持ち、パリサイ人としての最高の教

育を受けています。ユダヤ社会で尊敬を受け、人望も篤いパリサイ人の教師ガマリエルに

師事し、律法による義についてならば非難されるところのないと豪語できるほどに、律法

に従った生き方をしていました。ユダヤ社会でのエリートコースを歩み、ユダヤ社会での

最高指導者となり得る資質を備え、また人々から嘱望されていたと考えられます。

 しかし7節。これら人間的に頼むところはすべて、キリストのゆえに損と思うようにな

ります。さらに8節。すべてを失ったけれど、それらをちりあくただと考えたのです。そ

れは9節。律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、信仰に基づい

て神から与えられる義を持つからです。自分の誇りを捨て、人間的な頼みとするところを

捨てる先に、死者の中からの復活があります。11節。パウロはそれを目指しました。

 コリント人への手紙第212章9節でパウロは「しかし主は『わたしの恵みはあなたに十

分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですか

ら私はキリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」

と主なる神のことばと、それを受け入れる信仰の告白を記しました。パウロは「私が弱い

ときこそ、私は強いから」と確信したのです。キリストのための地上生涯がどれほどの困

難であっても、苦痛を伴うものであったとしても、それを喜んでいると告白するのです。

 このような霊的な祝福を受け取り、その祝福を味わうのは祈りの中でなされるのです。

祈るとき。私たちは父なる神の御前に自分を置きます。全能の神を意識し、全地の主であ

る神のご主権の中に生きていることを確認します。当初は自分中心の祈り、自分の願い、

自分の計画、自分の好みの実現を求めての祈りかもしれないけれど、父なる神との霊的な

交わりの積み重ねの中で、自分中心から、神中心へと整えられていくのです。そうして自

分の誇りとするところ、人間的に頼みとするところをちりあくたと自覚して、それらを捨

て、真の弱さを神の御前で認めていくに従って、私たちは神の大能の力によって強められ

ていくのです。自分の弱さを自覚した分だけ、神の助けを求めることになります。

 だからパウロは私たちを祈りに招きます。あらゆる祈りと願いによって、どんなときに

も御霊によって祈りなさい。そのために、目をさましていて、すべての聖徒のために、忍

耐の限りを尽くして祈りなさい、と招くのです。私たちは、ひとりで祈り、兄弟姉妹と心

を合わせて祈り、また祈ってもらうことが大事です。互いのために祈り合う必要があるの

です。神の主権を確認し、神のみわざに用いられるように、自分を明け渡す祈りをするま

で、御霊によって祈ること、霊的に成長することが私たちの目指すところです。

 もし霊的に乏しい、信仰的に力がないと感じるなら、それは、神の大能の力によって強

められていないから、祈っていないからではないでしょうか。祈りに乏しいことが、私た

ちを霊的貧困に陥らせるのです。祈らないから、神の武具を身に着けることができませ

ん。祈らないから、自分の置かれている状況に不満を持ち、状況に左右されるのです。祈

る中で、神の武具で身を固めていきます。祈る中で、自分の置かれた状況に主のご主権が

あることを確認でき、状況に左右されて、右往左往することはなくなります。祈る中で、

主のご主権の中に生かされていることを確認し、主が何をなそうとしておられるのかに思

いを向け、自分を明け渡し、自分をささげ、委ね切ることができるようになります。その

ようにして、私たちは、主なる神のみわざに用いられる信仰者として整えられていくので

す。祈りに招かれています。一人で祈り、教会に集まって祈る。祈りに富む信仰者として

整えられていきましょう。祈り始めなければ、祈りに富む信仰者にはなりません。祈り続

けなければ、神の豊かな霊的祝福を味わうことはできません。神の武具で武装するために

は、祈りが不可欠なのです。祈りに富む者となることを目指しましょう。神のすべての武

具で身を固める、霊的大人へと整えられている自分に気がつくはずです。


 
 
 

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