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2026年4月5日 礼拝「復活の力を知る」ピリピ3:5~11

  • 4月5日
  • 読了時間: 7分

 イースター、おめでとうございます。主イエスが死者の中から復活したことを記念する

礼拝を、皆さまと主なる神に献げることができ、感謝です。主イエスの復活を記念する日

は毎年変わります。春分の日を過ぎた、最初の満月の次の日曜日が主イエスの復活を記念

する日です。今年は先週2日(木)に満月となりました。なので先週3日(金)に、主イエスは

十字架で、罪の身代わりの処罰を受け、私たちに罪の赦しを備え、そして今日、死者の中

から復活されたことで、罪人を救う神の救いの計画は完了したのです。

 今日私たちは、パウロの証を確認します。その中で、彼が、キリストとその復活の力を

知り、と語っていますが、主イエスを信じた私たちも、キリストとその復活の力を体験的

に知る、信仰の生涯を歩みたいのです。パウロが語った、キリストとその復活の力を知る

とは、何を意味するのかを、パウロの証から確認しましょう。

 5~6節。パウロは、自分が生粋のユダヤ人であり、熱心なユダヤ教徒であったと告白

します。その熱心さは、キリストの教会を迫害したほどであり、律法による義については

非難されるところがない者でした。ユダヤ教徒であったパウロにとって、これは誇りとす

べき行動であり、その実績は、ユダヤ教社会の中で大きな評価を受けていたのです。パウ

ロはユダヤ社会において、まさにエリートコースを歩んでいました。

 7節。そのようなパウロが、復活された主イエスにお会いします。熱心なユダヤ教徒で

あったパウロへの、神のあわれみと言えます。パウロは、ダマスコにいるキリスト信仰者

たちを捕縛し、エルサレムへと連行する権限を大祭司から受けて、ダマスコに向かいまし

た。この出来事は使徒の働き9章に記されています。パウロがダマスコの近くまで来たと

き、復活された主イエスが声をかけたのです。なぜわたしを迫害するのか、と。

 パウロは目が見えなくされた三日間を、旧約聖書に記されているメシヤ預言を中心に、

神のことばを思い巡らしたのではないかと考えます。その中で、今までは直視することを

避けてきた、イザヤ書53章にある、メシヤが苦難を受ける預言に向き合ったのではないで

しょうか。そうして十字架につけられたナザレのイエスこそ、約束のキリストであると受

け入れたのです。十字架につけられたことで、神に呪われた者と結論づけていたけれど、

そしてナザレのイエスをキリストと仰ぐ者たちを、神を冒瀆しているとして、熱心に迫害

してきたけれど、それは間違いであり、神に敵対していたと認めたのです。そのような自

分を断罪し、滅ぼすのではなく、主イエスを信じる信仰へと導いてくださった神の恵みと

あわれみを覚え、パウロは方向転換をしました。主イエスとキリストの教会を迫害するの

ではなく、主イエスの十字架と復活による救いの恵みを宣べ伝え始めました。

 このことは、パウロがユダヤ社会でのエリートコースから外れること以上に、ユダヤ社

会から排除されることを意味します。しかし7節。パウロは大胆に告白します。それらは

キリストのゆえに損と思うばかりでなく、8節、すべてを損と思っていると。キリストを

信じ、キリストのものとされたことのゆえに、すべてを失ったけれど、それまで手にして

きた物質的な祝福のすべては、塵芥と考えるようになったのです。

 9節。キリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためと言うのです。

それまでパウロは、律法を行うことによる自分の義を求めてきました。そうして律法によ

る義については非難されるところがないと自負していたのです。完璧に律法を行っている

と考えていました。しかしその結果は、神の敵になっていたのです。律法による自分の義

ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる

義を持ちました。自分で判断する義ではなく、神が判断される義です。

 10~11節。パウロは「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあ

ずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいの

です」と自分の信仰生活の目標を述べました。パウロほどのキリスト者が「死者の中から

の復活に達したい」と語っているのは、自己満足による中途半端な霊的状態に留まること

への警告です。私たちも同じキリスト信仰者として、復活の力を知り、死者の中からの復

活に達したいと、自分の信仰生活の目標を掲げて、一歩踏み出そうではありませんか。

 10節。パウロは、キリストとその復活の力を知り、と語ります。キリストを知り、キリ

ストの復活の力を知るとは、知的に知ることではありません。正しい知識は大切ですが、

知識が私たちを救うのではありません。神の御子キリストが人となられた、罪を全く犯さ

なかったのに、全人類の罪に赦しを備えるために、身代わりとして十字架で処刑され、三

日目に復活されたと知る、その知識が人を救うのではないのです。

 十字架で死なれた主イエスを自分の救い主として受け入れ、自分の主とあがめて人格的

に結びつくことで人は救われます。キリストを知るとは、キリストとの人格的な交わりを

通して、霊的に、体験的に知ることです。その復活の力を知ることも同じです。キリスト

の復活を知識として知っていても、復活の力を知ることにはなりません。復活の力を知る

とは、日々の実生活において、キリストの復活の力を生きることです。キリストを死者の

中から復活させたその力、私たちを生かす、そのいのちの力を生きることなのです。

 私たちは主イエスを信じた時、自分もキリストとともに十字架につけられました。古い

自分はキリストとともに死んだのです。この、神がなされた霊的なみわざ、古い自分は死

んで、新しい人として復活したことを、私たちは信仰によって認めました。今私たちは、

キリストの復活のいのちに生きていることを認めるのです。キリストを死者の中から復活

させたその力は、私たちを新しいいのちに生かします。罪の中を歩んでいた古い自分は十

字架で死に、新しい自分はキリストの復活の力によって罪の支配から解放されました。

 しかし私たちはなおも、自分のうちにある罪の性質と戦っています。罪の力は私たちの

古い人に働きかけ、罪に引きずり込もうとしているのです。しかしキリストの復活の力は

完全です。私たちがキリストの復活の力に自分を明け渡して生きる時、罪は私たちに何の

力も及ぼしません。これが復活の力を知るということです。

 石垣島に住む私たちは、沖縄本島や本土に出かけるときには、飛行機に乗ります。搭乗

してから離陸、上空を飛んでいる間も、私たちの身体には、地上に引き落とす力、引力が

働いています。重力がなくなったのではありませんが、私たちは地上に落ちることなく空

中にあり続けます。それは飛行機が引力を越えた力で空を飛んでいるからです。しかしエ

ンジンが停まったなら、私たちは飛行機もろとも、地上に落下していきます。

 キリストの復活の力を知るとは、キリストの復活に生きることです。罪の力は常に私た

ちに働いています。その罪の力に打ち勝って生きることができるのは、キリストとその復

活の力を知って、キリストとともに生きることによるのです。パウロは「何とかして死者

の中からの復活に達したいのです」と語っていますが、私たちも、死者の中からの復活に

達したいのです。自分の考えや自分の都合、自分の好みを、キリストに従うことより優先

させるなら、つまりキリストの支配から離れて、自分の力で生きようとするなら、私たち

は罪の力に抵抗できません。誘惑に負け、罪に引き込まれ、罪を犯すことになるのです。

 私たちは自分の弱さを正直に認めましょう。罪の力に打ち勝つことはできないことを認

めたので、主イエスを信じて、罪の赦しと罪からの救いに与った私たちです。信仰生活に

おいても同じです。自分の力で罪に打ち勝つ信仰生活はできません。キリストとその復活

の力を知り、キリストとその復活の力に自分を委ね続ける必要があるのです。

 主の復活を記念する今日、私たちのためにいのちを捨てて十字架に死んでくださった主

イエスを仰ぎ、その愛、いのちを捨てるほどの愛で愛されていることを再確認し、古い私

はキリストとともに十字架につけられたこと、つまり古い自分はキリストとともに死んだ

という霊的事実に生きることが大事です。死ななければ復活はありません。死んだ者だけ

が復活の力を知るのです。キリストの復活の力を生き、罪に打ち勝つ勝利の生涯を歩む私

たちとされましょう。死者の中からの復活に達する。キリスト信仰者の目標です。


 
 
 

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