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2026年9月6日 礼拝「ユダにサタンが入る」ルカ 22:1~13

9月6日
読了時間: 7分

 主イエスの十字架への道を、ルカ独自の視点で記述されている箇所を見ています。いよ

いよ過越の祭りとその後の種なしパンの祭りの場面に入ります。過越の祭りは一日の祭り

ですが、種なしパンの祭りは、その後の七日間の祭りです。過越の祭りとは、主なる神が

エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を脱出させる際に、御使いを遣わして、エジ

プトのすべての家庭から長子を殺す時に、家の門柱と鴨居に羊の血を塗りつけさせ、血が

塗られた家を過ぎ越させたことを記念するためにの祭りです。エジプト全土に長子を失う

悲しみが広がることになった出来事を通して、エジプトの王ファラオはイスラエルの民を

追い出したのです。民は、パン種を入れる余裕もなく追い出されたので、種を入れないで

焼いたパンを食べました。その記念として、種なしパンの祭りが定められたのです。

 さて主イエスは、弟子たちとの過越の食事の後、ゲツセマネの園で、ユダヤ教指導者た

ちに捕らえられます。その手引きをしたのがイスカリオテのユダです。今日私たちは、イ

スカリオテのユダが、どのように裏切る者となったのかを見ます。

 まず、イスカリオテのユダですが、彼はユダヤの町、カリオテの出身です。12弟子の多

くはガリラヤ出身ですので、異色の存在です。ユダヤ地方の人々からは、ガリラヤ出身者

は少々見下されていました。ガリラヤの「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とは

ナタナエルという弟子が、ナザレ出身のイエスを評価した時のことばです。まだ主イエス

のことが知れ渡る前、人々のガリラヤに対する見方を知ることができる出来事です。

 イスカリオテのユダは、いわば辺境の出身ではなく、中央の出身です。どこかに、その

ことが誇りとなっていたかもしれません。自分は違うという優越感です。しかしユダは、

ペテロやヤコブ、ヨハネのように、主イエスの重要な働きを共有することはありませんで

した。ユダは会計を任されていたのですから、それなりに重用されていたと言えます。し

かしペテロたちと比較して、何で自分はという思いを持っていたのではないでしょうか。

 ヨハネの福音書には「彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗

んでいた」と、ユダについての言及があります。彼の不平、不満がたまって、金を盗む行

為へと進ませたのかもしれません。12弟子とされたこと自体を喜ぶことができたなら、不

平や不満を抱え込むことはなかったのにと思うのです。

 マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書に、12使徒が選ばれた箇所が記されて

いますが、イスカリオテのユダはそのすべてで12番目に列挙されていて、すべて、イエス

を裏切ったと明記されています。

 さて、本日の箇所を見ましょう。1~2節。過越の祭りが近づいていました。宗教指導

者は、イエスを殺すための良い方法を探していたとあります。しかし彼らは、民を恐れて

いました。宗教指導者なら、神を恐れるはずですが、民を恐れているところに、彼らの宗

教の本質が分かります。人にどう見られるかに関心があり、神にどう見られるかは、気に

していなかったということです。自分たちの保身や世間体が重要であったのです。

 3節。そのような状況の中で、ユダに、サタンが入りました。サタンの誘惑に自分を明

け渡したと言えます。ユダがイエスを裏切るまでの経緯を見ましょう。

 ヨハネの福音書13章2節に「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテの

ユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた」とあります。ユダが主イエスに

仕えていた3年の、どの時点で裏切る思いを持ったのかは、はっきりとしません。自分が

主イエスの弟子となり、12使徒の一人として選ばれ、主イエスの側で仕えるようになった

当初は、自分の師として仰いで、熱心に仕えていたと思われます。しかし次第に、自分が

期待していたメシヤ像とは違うことに戸惑いを覚えていて、心が主イエスから離れていき

ます。そのようなユダの心に、イエスを裏切ろうという思いが入れられたのです。

 ユダは、その思いを心に秘めたまま、12使徒の立場を続けていました。そうして主イエ

スも、ユダの心に、自分を裏切ろうとする思いがあることをご存じでした。主イエスは事

あるごとに、ユダの思いを知っていることを伝え、悔い改めを促したのです。

 私たちの心にも、悪魔は、神に背くことになる様々な思いを入れてきます。しかし思い

が入れられていても、それを捨てることはできます。捨てるなら、私たちは神に背くこと

になる行為から守られます。罪に引き込まれることはありません。

 しかしユダは、その思いを心に留めていました。そうしてイエスを裏切ることに進むの

です。それが、サタンがユダに入ったと表現されたのです。裏切ろうとする思いを心に入

れられます。裏切ろうとする思いを留めておきます。そして絶好の機会が訪れた時に、そ

の思いを実行する決断をするのです。私たちに対する罪の誘惑も、同様の手順に進むとい

うことを知っておくことは大事です。思いが心に入れられた時点で、それを捨てることが

大事です。捨てないで温存しているなら、罪に陥る危険度は高まります。

 過越の食事の時に、主イエスは何度となく、ユダに悔い改めの機会を与えます。ヨハネ

の福音書13章21節で「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうち

の一人が、わたしを裏切ります」と伝えます。そうして「わたしがパン切れを浸して与え

る者が、その人です」と言い、ユダにそのパンを与えたのです。

 主イエスは他の使徒たちと同様に、ユダの足も洗いました。ユダも含めて、弟子たちへ

の愛を最後まで示されたのです。

 マタイの福音書26章には「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。人

の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るそ

の人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです」と警告してい

ます。ユダを悔い改めに招こうとする主イエスの愛です。しかしユダは、主イエスからパ

ンを受け取りました。ヨハネは福音書に「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタ

ンが彼に入った」と表現して、その経緯を書き記しました。

 4節。イエスを裏切る思いを入れられていたユダは、その思いを実行する決断をしまし

た。そうして、祭司長たちや宮の守衛長たちに、イエスの引き渡し方法とその報酬を相談

するのです。宗教指導者たちにとっては、まさに渡りに舟でした。民衆がいない場所で、

民衆のいない時に、主イエスを密かに捕らえることができる機会が与えられたのです。

 5~6節。それで、その報酬として金を払う約束をします。マタイの福音書では銀貨30

枚とあります。銀貨30枚は、約90日分の給与にあたります。ユダは承知して、群衆がいな

い時に、イエスを引き渡そうと機会を狙うことにしました。

 7節からは、過越の食事の用意の様子です。8節。主イエスはペテロとヨハネを遣わし

て、過越の食事の用意をするように命じました。二人は、主イエスの言われたとおりにす

ることで、ある家の主人に会い、その家の広間に、過越の用意をしました。過越の食事で

の出来事については、次回に詳しく見ることにします。今日確認したいことは、イスカリ

オテのユダが自分を裏切る決断をしたことを知った上で、他の11使徒と同等に、ともに過

越の食事を過ごしたという事実です。主イエスは、最後まで、ユダをも愛し続けました。

ユダの裏切りを知っていることを伝えて、悔い改めに招いておられたのです。ここに、あ

われみの尽きない神の救いへの招きがあります。しかしユダには、主イエスの愛と悔い改

めへの招きは通じませんでした。そうしてユダは、自分の決断を固辞し、裏切りを実行し

たのです。主イエスは捕らえられ、ユダヤ最高法院での裁判を受けました。

 その後、ユダは、最高法院で、イエスが死刑に定められたことを知って後悔します。そ

うして銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました。後悔しても、罪を

認め、赦しを求めないユダは、主イエスを救い主と認めなかったことが分かります。

 私たちも失敗をします。罪を犯します。その時後悔するでしょう。しかし後悔するだけ

では何の解決にもなりません。罪を罪として認め、悔い改めることが大事です。主イエス

の十字架は、私たちの罪を赦すためにあるのです。赦しを求めて悔い改めることが大事で

す。


 
 
 

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