2026年8月30日 礼拝「信仰による義を得る」ローマ 9:25~33
パウロは9~11章で、同胞ユダヤ人の救いについて述べます。その中で「イスラエルか
ら出た者がみな、イスラエルではありません」と宣言しています。ユダヤ人だから、みな
が神の民イスラエルとなるとは限らないということです。すべての人は罪人であって、主
イエスを信じることで救われます。ユダヤ人だから救われるとか、ユダヤ人ではないから
救われないという線引きはありません。私たちが罪の赦しを受け、罪からの救いを得るの
は、十字架で死なれた神の御子、主イエス・キリストを、自分の救い主と信じ、自分の主
とすることによるのです。
18節には「神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるの
です」とありました。神がだれをあわれんでくださるのか、だれはあわれまないのか、そ
の主権は創造者であるまことの神にあります。そして今、ユダヤ人は頑ななままにされる
中で、パウロを始め一部のユダヤ人たちはあわれみを受け、主イエスを信じる信仰が与え
られたのです。私たちキリスト信仰者も神のあわれみを受けたので、多くの人々が主なる
神を神としない社会の中で、十字架につけられた神の御子を信じる信仰を持つことができ
ました。私たちはあわれみを受けたのです。これほどの感謝はありません。
22節には「もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、
滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか」
とあります。公正な義の神は怒っておられます。私たちのあらゆる不敬虔と不義に対して
怒りを向けておられるのです。この神の怒りのゆえに、自分の罪を抱えているすべての人
は、滅びに向かって歩んでいるという厳粛な事実を覚えていることは大切です。
そのような私たちが、神のあわれみを受けて、主イエスを信じる信仰が与えられ、滅び
からいのちに移されました。神の怒りは主イエスによって宥められたのです。
24節にも「このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異
邦人の中からも召してくださったのです」と記しています。キリスト信仰者はあわれみの
器として神に召されました。ユダヤ人の中からも、ユダヤ人ではない異邦人の中からも召
されたことで、アブラハムに告げられた約束が実現します。アブラハムの信仰に倣う、全
世界の人々が、神の祝福を得るようにと招かれていたのです。
さて今日の箇所を見ていきましょう。25~26節。パウロは、預言者ホセアを通して語
られたことを、新約の時代に適用させました。旧約の神の民イスラエルは誤った選民意識
を持ち、異邦人を神の民から除外して、神に愛されない者と排除しました。そのユダヤ人
たちの見方を用いるのです。わたし、創造者であるまことの神は、ユダヤ人たちが神の民
でないとみなし、神に愛されていないと決めつけた異邦人を、わたしの民と呼び、愛され
る者と呼ぶ、と。26節は、同じことを別の表現で言い表しています。あなたがた異邦人
は、ユダヤ人たちから神の民ではない、と言われその場所で、生ける神の子らと呼ばれる
と。ユダヤ人がどのように異邦人を見下し、排除したとしても、すべての人を創造された
まことの神は、すべての人を、生ける神の子らと呼ばれる道を備えておられたのです。
27節。預言者イザヤを通しては、神の民となるように召されたユダヤ人たち、民族とし
てのイスラエルについて、語らせました。イザヤは叫んでいます。「たとえ、イスラエル
の子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる」と。神の民とされたイ
スラエルのすべてが救われるわけではないのです。
ユダヤ民族は神の民として選ばれました。全世界に神の祝福と恵みを証させ、全世界が
神の民となる、その祝福の器として召されたのです。しかしイスラエルの多くの者たちは
神の栄光を現すことをせず、偶像礼拝という甚だしい罪を犯し続けました。だから神が、
イスラエルの民の数を祝福して海の砂のように多くしたにもかかわらず、多くの者は退け
られました。残りの者以外はみな滅ぼされたのです。
今日の聖書交読箇所で、主なる神は預言者エリヤに語られました。エリヤはバアルの預
言者とアシェラの預言者と直接対決をして、イスラエルの民に対して、主なる神こそが生
けるまことの神であることを示しました。しかし対決を目撃した時、心を主なる神に向け
たはずのイスラエルの民は、真の悔い改めには進まなかったのです。
エリヤはそのようなイスラエルの現状に失望して、主にある自分の働きは無意味であっ
たと意気消沈して、自分の死を願います。エリヤは主なる神に「私は万軍の神、主に熱心
に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊
し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいの
ちを取ろうと狙っています」と訴えたのです。そのエリヤに対して、主なる神は「わたし
はイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バ
アルに口づけしなかった者たちである」と答えられました。
私たちは目に見える範囲で物事を判断します。しかし主なる神は、私たちの知らないと
ころで、ご自分のみこころのままに事を行っておられるのです。私たちは主なる神を信頼
し直しましょう。私たちが知り得ること、理解できることは、ごくわずかです。主なる神
は残りの者を残しておられ、彼らを救われるのです。
29節。神の民として選ばれたイスラエルは、神の民として歩むことを退け、偶像礼拝に
進むことで、滅ぼされても仕方のない状態に陥りました。しかし神はあわれみのゆえに、
イザヤに預言させた通りに、子孫を残しておられました。イスラエルの国は南北に分裂し
た後、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南ユダ王国も新バビロニア帝国に
滅ぼされました。万軍の主である神が、バビロン捕囚によって、信仰の継承者である子孫
を残されたのです。彼らがあわれみの器とされました。
バビロン捕囚から帰還した人々は、信仰者として主なる神に聞き従い、神殿を再建し、
城壁を築き直して、礼拝共同体としてのイスラエルを再興しました。そうして神は、イス
ラエルの子らの数を再び、海の砂のように増やしてくださいましたが、彼らの多くは、主
なる神を自分の神とするのではなく、自分たちが作った宗教国家を守るために、神の御子
イエスを受け入れることを拒んだのです。
ユダヤ人たちは、主なる神が遣わした救い主、神の御子イエスを拒むことで、創造者で
あるまことの神を拒んだのです。彼らは自分たちの宗教には熱心であっても、神を信じる
信仰については逸脱してしまいました。神を中心にする信仰ではなく、自己中心、自己満
足の信仰であったので、神の御子イエスを受け入れることができませんでした。
30~31節。義を追い求めなかった異邦人とあります。律法を知らず、神の義が何である
かを知らされなかった異邦人は、信仰による義を得ました。神の御子イエスを自分の救い
主と受け入れ、自分の主とあがめる信仰が与えられたのです。それに対し、義の律法を追
い求めていたイスラエルは、その律法に到達しませんでした。彼らは、神の御子イエスを
自分の救い主と受け入れることも、自分の主とあがめることもしなかったからです。多く
のユダヤ人は、主イエス・キリストを拒むことで、父なる神を拒んだのです。
異邦人は神の義があることを知りませんでした。イスラエルが異邦人であるあらゆる国
民に律法を知らせなかったからです。それは、自分たちだけが神に選ばれた民であると考
え、異邦人は神に呪われていると排除したからです。独りよがりの選民意識であり、全世
界の祝福になるというアブラハムの選びを否定した結果でした。彼らは不信仰でした。
32節。イスラエルは神の義を得ようと、義の律法を追い求めました。彼らは信仰によっ
てではなく、行いによって神の義を求めたことで躓いたのです。行いによってとは、その
主体が人間にあります。自分の基準で考え、自分が満足する水準で、律法を行うのです。
結局は、神が求めておられる基準を引き下げて、自己満足で終わることになります。
主イエスが律法学者を始め、律法を行うことで、神に義と認められていると考えていた
ユダヤ人を、偽善者たちと断罪されましたが、彼らは、律法を与えられた神を自分の神と
あがめて従うのではなく、律法に対しても、自分の考えや判断を優先し、それに固執して
律法を行っていました。その結果、彼らは義の律法に到達しませんでした。
信仰によってのみ、神に義と認められます、これは、旧約の時代においても同じです。
「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあるように、神に義と認めら
れるのは、神を信じる信仰のみによるのです。神を信じるとは、神のことばだからと、そ
れに同意して、行動に移すことです。どんなに神を信じていると口を酸っぱくして言って
も、神のことばを行う一歩を踏み出すのでなければ、神を信じることにはなりません。
神の御子が人となって地上に来られることで、神を信じることが何であるかが、さらに
明確になりました。人となられた神の御子、主イエス・キリストを神から遣わされた救い
主と信じることが、神を信じることです。あの十字架でのイエスの死は、私たちの罪を赦
すための身代わりの死であり、死者の中から復活された主イエスは神ご自身であると認め
て、自分の救い主と受け入れることで、神を信じるとは何かが明確にされたのです。
33節。人となられた神の御子、主イエスはつまずきの石となりました。多くのユダヤ人
は躓きの石につまずいたのです。ナザレのイエスを人となられた神と信じるのか、十字架
につけられたイエスを救い主を受け入れるのか、が問われています。神を信じるとは、自
分の考えや理解を押し通すことではありません。神が告げようとしておられることを謙虚
になって考え、自分の考えや理解に合わなくても、それを受け入れることです。
ナザレのイエスの地上生涯を謙虚に見ていくならば、その生き様は、旧約聖書で預言さ
れていた救い主、キリスト、メシヤについての預言の通りであることが分かります。誕生
した地も、育った地も、アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であることも、十字架で
の死も、復活も、その他のメシヤ預言の通りに主イエスは生き、そして死にました。さら
に死者の中から復活したことも預言のとおりです。
ナザレのイエスは、自分は神であると宣言し、そのことばの裏付けのために、神として
の権威で教え、病気を直し、汚れた霊に憑かれた人を解放しました。嵐で波猛る湖を静ま
らせ、死者をもよみがえらせました。そうして十字架の死と三日目の復活を予告し、その
とおりに十字架で処刑され、三日目に復活されました。このナザレのイエスを神、救い主
として信じることが、神を信じることであり、その信仰が神に義と認められるのです。
主イエスは躓きの石として差し出されました。多くのユダヤ人は、また多くの異邦人も
躓きの石につまずいています。主イエスは、信じない者には躓きの石であっても、信じる
者には救いとなるのです。この方に信頼する者は、失望されられることはありません。そ
の信仰が神に義と認められるのです。私たちキリスト信仰者は信仰による義を得ました。
そしてだれもが、信仰による義を得ることができるのです。




コメント