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2026年8月23日 礼拝「聞く耳のある者になる幸い」ルカ8:4~15

8月23日
読了時間: 10分

 主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と、聞く耳を持つ者になることへと招きま

した。今日私たちは、主イエスが語られた一つのたとえ話とその解説を通して、聞く耳の

ある者になることを求めます。それが真の幸いを得る秘訣だからです。

 現代は、聞くことそれ自体が難しい社会でもあります。様々な情報が氾濫し、錯綜して

いて、しかもそれらの多くは文字とか映像による情報です。つまり目で見たり、読んで情

報を得て、自分で判断することが多く、聞く姿勢が身につきにくいのです。

 聞くには、語る相手の存在を意識する必要があります。語る人が何を伝えようとしてい

るかを聞こうとするのです。読むという動作も、本来ならそれを書いた人の思いを受け止

めるべきですが、その相手を意識することなく、そこに記されている文字を、自分の主観

的な判断で取捨選択しています。自分に都合よく読むことになるのです。

 この傾向は、聖書を読む際にも起こっています。私たちは聖書を読むことにおいても、

一般書や雑誌、新聞を読む時のような感覚で、そこに書き手である神を意識しないまま、

自分の主観や判断基準を優先して読んでしまうということです。私たちは今、自分が主体

となって読み、判断するという姿勢を身につけています。そうして、本来おられるはずの

書き手である創造者であるまことの神から聞くことが難しくなっているのです。聖書は神

のことばです。語り手である神を意識し、神の語りかけに耳を傾け、聞き従うことで、神

のことばが持ついのちと力を味わえます。この恵み、祝福を体験したいのです。

 さて今日の箇所です。主イエスが語られたたとえとその解説です。主イエスは「聞く耳

のある者は聞きなさい」と招きました。神のことばですから、神からの語りかけとしての

ことばに耳を傾けるのです。聞く耳を持つとは、語っておられる神を意識して聞くという

ことです。語っておられるお方が神ですから、聞き従う姿勢で聞くのです。

 4節。大勢の群衆が集まって来たので、主イエスはその群衆にたとえを語られました。

人々は自分にとってためになる教えを聞こうとして集まってきたと思われます。その群衆

に対して、主イエスは、聞く姿勢を吟味させたのです。自分はどのような態度で、主イエ

スから聞こうとしているかを、種蒔きのたとえで考えさせたということです。

 当時の種蒔きは、種を入れた袋を肩にかけ、手で種をつかんで、それを蒔き散らすか、

穴を空けた袋に種を入れて、それを振り回して種を飛ばすとい方法でした。ですからある

種は道端に、ある種は下に岩がある薄い土の上に、ある種は茨の真ん中に、ある種は良い

地に落ちたのです。そしてそれぞれの地に落ちた種の結果が話されました。

 道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥に食べられました。岩の上の薄い土に落

ちた種は、芽を出したけれど、水分がないので、枯れてしまいました。茨の真ん中に落ち

た種は、芽を出し、成長したけれど、成長の早い茨に塞がれてしまいました。これらの地

に落ちた種はみな、実を結ぶことはありませんでした。どのような土地であっても、実を

結ぶことになるか、実を結ばないか、のどちらかです。その違いは軽視できません。

 主イエスの解説を確認しましょう。11節。種は神のことばですとあります。つまり、蒔

かれた種は、語られた神のことばです。神のことばを聞いた人が実を結ぶことになるか、

実を結ばないままか、となるのですから、聞き方は重要です。無視はできません。

 神のことばが語られます。語られた神のことばを聞いた人は4種類です。みなさまはど

の聞き方をしているでしょうか。実が結ぶ聞き方をしているか、実が結ばない聞き方をし

ているか、です。どうでしょう。私たちは、実を結ばせたいのです。

 12節。道端の聞き方です。道端とは、人々が踏み固めた地、頑なな心です。道端のよう

な心のままで聞いている、つまり端から受け入れる思いはなく、聞き流しているので、神

のことばは彼の心に入ってはいきません。神のことばは取り去られました。

 13節。岩の上の聞き方とは、聞いた時には好ましいと思い、喜んで受け入れます。しか

しそれは、たまたま自分にとって好ましいと思えた内容だったからで、主なる神を、主イ

エスを、自分の主とすることはありませんでした。だから試練や困難など、自分にとって

不都合なことが起こると、信じることを止めます。自分の損得に合わせた聞き方で、自分

にとって都合が良い範囲において受け入れ、そうでなければ退けるという姿勢です。語り

手である神を意識することはありません。自分が中心です。

 14節。茨の中の聞き方は先の2種類とは違っていて、少なくとも語り手である神を意識

しています。神のことばとして聞き、そのことばに合わせて生きようとはします。ただ残

念なことは、創造者であるまことの神を自分の神としきれていません。完全には信頼する

ことができず、自分の全存在、全領域での主とするまでには至っていません。だからどち

らを優先するかという選択を迫られると、神のことばではなく、自分の都合や好み、自分

が置かれた状況や関係での損得勘定で、優先順位を決めるのです。

 日常生活における思い煩いや、富、快楽など、様々な茨、雑草があります。自分にとっ

てさほど重要ではない茨、雑草は抜きます。しかし自分にとって大切な茨、雑草は抜かず

に放置しておきます。その茨や雑草は次第に大きくなり、そしてどちらかを選ぶかという

時に、自分が大切にしているものを犠牲にしてまで、神のことばに聞いて生きることを選

ぶことはありません。神のことばに聞いて生きることではなく、自分が大切にしているこ

とのために、時間や労力を使うことを選び取るのです。どのような理由があるにしても、

神のことばを退けるので、その神のことばの約束は実現しません。実を結ばないのです。

 15節。良い地の聞き方を身につけましょう。私たちには、礼拝という、神のことばを聞

く場が備えられています。まずこのことを感謝しましょう。礼拝においては、神のことば

である聖書を、自分の都合の良いように、また評論家的な態度で、読む危険から守られて

います。耳を傾ける機会が与えられているのは幸いです。このことはまた、礼拝で語られ

るメッセージが、真に神のことばとしてふさわしく語られているかを吟味しながら聞く場

でもあります。牧師が人間的な考えや思想を語ってるなら、それは拒絶しなければなりま

せん。その間違いを指摘し、退ける必要があります。しかし神のことばを神のことばとし

て取り次いでいるなら、聞いて生きる一歩を踏み出す真剣さで聞くことが大事です。

 15節。立派な良い心で聞くとあります。それは、しっかり守るためです。神の語りかけ

を聞き、従うという態度です。そこに創造者であるまことの神がおられます。この神を自

分の神として、そのことばを生きる一歩を踏み出すのです。

 このために必要のは、神への信頼です。神のことばは生きていて力があるから、そのこ

とばのとおりになると信じるので、神のことばを生きる一歩を踏み出せるのです。私たち

が神のことばを聞いても、その一歩を踏み出せないのは、神を信頼し切れていないからで

はないでしょうか。もう一度、創造者であるまことの神を信じ直しましょう。

 創造者であるまことの神の特質の中で、愛と義について確認します。神は愛です。神は

罪を犯している私たちを愛しておられ、罪の中を歩んでいることをかわいそうに思ってく

ださっています。と同時に、神は義です。神は罪をことごとく憎み、罰するのです。私た

ちが犯してきた、犯している、これから犯すであろう罪や間違いを、見過ごすことはあり

ません。その罪に怒りを向けておられ、必ずさばきます。

 愛の神は罪の中にいる私たちをなおも愛して、罪を赦し、罪から救おうと招いておられ

ます。義の神は、私たちが犯した罪を、それがどれほど些細な、微細な罪であっても、見

過ごすことをせずに、必ず罰するのです。

 神の義と神の愛、全く相反する神の特質を満足させるために、神の御子、主イエス・キ

リストの十字架が備えられました。私たち全人類のあらゆる罪を御子イエスに負わせて、

神は身代わりに処罰したのです。これがイエス・キリストの十字架刑です。罪のない、罪

を犯したことのない神の御子、神ご自身が、全人類が犯した罪に対する罰を代わりに受け

ることで、すべての人に罪の赦しを備えたのです。その罪の赦しを感謝して受け取る時、

神はその人を罪のない者、罪を犯さなかった者と見なすということです。義の神は、罪赦

された罪人を、罪のないきよい者として、受け入れることができます。キリスト信仰者は

罪赦された罪人です。さばくべき罪はないと言われるのです。

 私たちがまことの神を信じる信仰の第一歩は、主イエスの十字架によって備えられた神

の救いへの招きに応じることです。主イエスを救い主として信じ、主イエスの十字架で備

えられた罪の赦しと罪からの救いを受け取ることです。神のことばに自分を合わせ、神の

招きに応じることで、まず第一に、救いの実を結ぶのです。そして、いのちを捨てるほど

の愛で主イエスに愛されていることを味わい知ったことにより、まことの神への信頼が確

かにされるのです。そうして神に信頼して、神のことばを生きることで実を結ぶのです。

 8節。聞く耳のある者は聞きなさいと、主イエスは招きました。これは聞く耳を持つ者

になりなさいとの招きです。私たちを、いのちを捨てるほどの愛で愛して、神のことばを

生きることで豊かな実を結ぶ者となるようにと招いておられる主イエスは、私たちの信仰

の歩みを霊的な祝福で満たそうと、聞く耳のある者になるようにと招くのです。

 まず救いの実です。主イエスを自分の救い主と信じ、十字架の身代わりの死を自分のた

めであると受け入れることで、罪の赦しを受け、罪から救われ、神の子どもとされ、永遠

のいのちに生きる、救いの実を結びます。次は霊的品性の実を結びます。助け主の聖霊が

結ばせてくださる実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。こ

れらを豊かに結ばせてくださいます。さらに義の実です。神が義とされる、神の御前に正

しい歩みへと整えられます。そして神のことばに従う時の約束の実があります。

 私たちは神のことばを聞いています。語りかけている主なる神を意識して、神のことば

に従う姿勢で聞くことが大切です。語りかけているお方は、愛と恵みに富み、溢れるばか

りの祝福に満たそうとしておられる、生きておられるまことの神です。

 これまでの私たちの聞き方は、4種類のどれに当てはまるでしょうか。実を結ぶ聞き方

でしょうか。実を結ぶことのない聞き方でしょうか。主イエスを信じて、救いの実を結ん

だ私たちだから、様々な実をも豊に結ぶ信仰者となりましょう。その秘訣はただ一つ、神

のことばを生きる一歩を踏み出すことです。後は生きていて力のある神のことばが、一歩

を踏み出した者に、約束の実を結ばせてくださいます。

 神のことばを聞いたという点ではみな同じです。違いは何もありません。しかし聞く耳

を持つ者だけが、豊かな実、百倍の実を結ぶのです。他の人は、神のことばを聞いたけれ

ど、その神のことばの実を結ぶことはありませんでした。

 まず救いの実を結ぶことから始まります。十字架で死なれた主イエスを自分の救い主と

信じることです。いのちを捨てるほどの愛で愛されていることを味わい知ります。すべて

の人が、豊かな実を結ぶようにと招かれています。


 
 
 

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