2024年12月29日 礼拝「主に身を避ける幸い」詩篇34:1~10 年末感謝
- hikaruumichurch
- 2024年12月29日
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2024年も主に守られ、本日、2024年最後の主日礼拝を、創造者である神に献げること
ができ、心から感謝しています。この1年を振り返って、さまざまな恵みを思い起こすこ
とができ、心から主をほめたたえます。
今日私たちは、詩篇34篇を通して、あらゆる時に主をほめたたえると告白した、ダビデ
の信仰を見ます。そしてそれは、主に身を避ける人が味わう幸いであることを確認したい
のです。私たちもそれぞれ、この一年で、様々な体験をしました。嬉しいこと、悲しいこ
と、辛いこと、楽しいこと、いろいろな困難にぶつかり、それを乗り越えてきたのです。
私たちの教会も、この一年いろいろなことがあり、さまざまな恵みを受けてきました。
12月17日(火)の祈り会で、教会に与えられた恵み、個々人に与えられた主の恵みを数え、
感謝の祈りをささげたのですが、辛いことも、心配なこともありました。いろいろな出来
事を通して喜怒哀楽を味わい、主にあって成長させていただいています。私たちは、喜怒
哀楽に一喜一憂させられて終わるのではなく、あらゆる時に主をほめたたえることができ
る者とされています。それは私たちもまた、天地の主、全能の神に身を避ける者たちだか
らです。今日もう一度、この詩篇34篇を読んだダビデの信仰の歩みを、私たちも追体験し
て、私たち自身があらゆる時に主をほめたたえる者とされていることを確認しましょう。
詩篇34篇が読まれた背景が、表題に記されています。ダビデがアビメレクの前で、頭が
おかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに、とあります。アビメレ
クとは、ペリシテ人の地、ガテの王の呼称です。エジプトの王をファラオと呼ぶのと同じ
です。この出来事は、サムエル記121章10~15節に記されています。ガテの王の名前はア
キシュであることが分かります。
ダビデは、主君サウルにいのちを狙われ、逃亡生活を余儀なくされました。ダビデがイ
スラエル初代の王サウルに本格的に仕えるようになるのは、ガテの生まれである大男のペ
リシテ人ゴリヤテを倒し、イスラエルに勝利をもたらしたときからです。この出来事はサ
ムエル記117章に記されています。その後ダビデは、次々に勝利を収め、戦士たちの長に
まで昇進します。そして18章。サウルがペリシテ討伐から帰ってきた時に、女性たちたち
が歌い踊りながら、サウル王を迎えたのですが、その時のことば「サウルは千を討ち、ダ
ビデは万を討った」に、サウルは激しく怒り、不機嫌になったのです。
この時からサウルは、ダビデを疑いの目で見ます。王位が奪われるのではないかと恐れ
て、ダビデの命を狙い始めたのです。ダビデはその後も変わらずに、誠実に、忠実にサウ
ルに仕え続けますが、サウルの攻撃は激しさを増し、サウルに罪を犯させないためには、
ペリシテ人の地に逃げるほかはないと追い詰められるのです。これが21章です。
しかしこの時点では、ダビデがサウルの反逆者となり、逃亡しているという情報はガテ
には届いていなかったようです。ダビデはイスラエルの勇者、押しも押されもしない実力
者と見られています。アキシュの家来たちが言ったことばに、ダビデは身の危険を感じ、
非常な恐れを抱いたのです。そしてその窮余の策として、頭がおかしくなっているふるま
いをして、アキシュに追われました。これらが詩篇34篇の背景です。ダビデは、命の危険
にさらされながらの逃亡生活を強いられています。サウル王の婿という立場から逃亡者と
なり、どん底に落された状況の中で、神を賛美する歌を歌っているのです。
詩篇34篇1節。この背景を知らされると、ダビデの告白は重みが増します。ダビデは言
い切ります。「あらゆる時に主をほめたたえる。口にはいつも主への賛美がある」と。す
べてが思い通りに運んでいる、順風満帆であるなら当然でしょう。しかし今ダビデは逆風
満帆と言える困難な状況に置かれ、自分の願いとは全くかけ離れている中で、主をほめた
たえるのです。どうしてこのようなことができるのでしょうか。ダビデの信仰の歩みは、
主に対する全幅の信頼が基盤だからです。信仰が生きている結果です。
2節。ダビデは告白します。「私のたましいは主を誇る」と。その状況の直中で、主が
なさっていることの意味は分からない、なぜ主は自分をこのような状況に置かれているの
か見当もつかない、と思います。しかし創造者である神、全能の主のなさることは、すべ
て時にかなって美しいと、後で確認させられます。すべてが最善に計画されています。全
能の神、全地の主権者である神が、すべてを支配しておられることを認める時、今が自分
の願いとはかけ離れている状況だとしても、そこで主を誇ることができます。だからダビ
デは招くのです。3節。私とともに主をほめよ、一つになって 御名をあがめよう、と。
4節。主である神は、呼び求める者に答えます。すべての恐怖から救い出してください
ます。状況は何も変わっていません。サウルの追跡は続き、いのちの危険がなくなる気配
は感じられません。しかしその状況の中に、主なる神はともにおられます。これまでとも
におられた神は、どのような状況の中にも、ともにおられるのです。そして、呼び求める
者に答え、救い出してくださったように、これからも救い出してくださるという確信から
平安に満たされるのです。主は呼び求める者を、すべての恐怖から救い出されます。
7節。主なる神は、主の使いを、主を恐れる者に遣わし、私たちの周りに陣を張り、助
け出されるのです。人間的に見ると、困難が続き、危機的状況が増しているように思えた
としても、それがどれほど悲劇的に見えても、その危険が私たちに襲いかかることはあり
ません。私たち主を恐れる者の周りには、私たちを守るために、私たちの目には見えない
けれど、御使いが遣わされていて、私たちを取り囲んでいるからです。
8節。ダビデは語りかけます。味わい、見つめよと招くのです。私たちは、主がいつく
しみ深い方であることを知っています。しかしことばでは知っていることと、味わい知る
こととは違います。味わうためには体験しなければなりません。どんなにおいしい食事を
出されても、それがすごくおいしいんだよと言われても、それを口にしなければそのおい
しさを味わえません。口にして、味わって、初めてその本当のおいしさを知るのです。主
のいつくしみ深さ、主の恵み豊かさも同じです。私たちは聖書を通して、主がいつくしみ
深いお方、その恵みの大きさ、祝福の豊かさを、知的に知ることができます。
しかし味わい知ることにはなりません。そのすばらしさを体験する必要があるのです。
主に全幅の信頼を置き、主のことばに聞き従い、主に助けを求め、主に助けられた経験を
して、初めて、主がいつくしみ深い方であること、主のすばらしさを実際に味わえるので
す。そして一度、実際に味わい知った者は、それを忘れることはなく、何度も思い起こし
て、主に助けを求め、答えをいただき、さらに深く味わうことになるのです。
ダビデはそれまでの人生で、主の守りを体験してきました。父の羊の世話をしていたと
きに、主の助けを受けて、獅子や熊と闘い、羊を守りました。ゴリヤテと闘う時も、少し
も恐れませんでした。その闘いは主の闘いであると確認し、主が勝利を与えてくださると
確信して、ゴリヤテに勝利しました。 そして今、主君サウルの討伐から逃れ、アビメレク
に追われる中にあって、主のいつくしみ深さを見つめ、味わい直して、主がなさるみわざ
を待ち望むのです。どのように導かれるのかは分かりません。いつまで逃亡を続けなけれ
ばならないのか、先は見えません。しかし主なる神は最善に導いてくださるという確信が
あるので、全てを主に委ね、主に聞き従う歩みを進めるのです。主がいつくしみ深い方で
あること、主の恵みと祝福はすばらしいことを味わえるのは、主に身を避けている時で
す。主に身を避ける者だけが、主がいつくしみ深い方であることを味えるのです。ここに
主に身を避ける人の幸いがあります。
私の信仰生活を振り返ってみて、改めて、日々主に信頼して、自分に与えられている歩
みを誠実に行うことの大切さを思い、主に聞き従って生きる幸いを確認しています。主に
信頼する者は失望させられることはない。人の心には多くの計画がある。しかし主のはか
りごとだけがなる。とみことばにありますが、まさにその通りであることを、いくつかの
証をとおして、共有させていただきます。
神学校で学んだ3年間でも、必要は主が満たしてくださることを味わい知りました。8
年間の会社務めを辞め、伝道者としての訓練を受けるために神学校に入るときに立てた、
3年間の経済的必要のための人間的な計画はすぐに崩されました。しかし主は、多くの支
援者を用いて、経済的な必要を満たし、学びを終えさせてくださいました。
伝道者としての召しは、府中市での開拓に導かれているとの思いからでした。教会のな
い地域に、ゼロから伝道し、キリストの教会を建てる主の働きに参与するためと考えてい
たのです。しかし主は、神学校の最終学年になるとき、主の不思議な導きによって、それ
まで全く知らなかった東村山キリスト教会に所属させ、無牧となった教会に奉仕神学生と
して仕えることに導かれました。そして卒業と同時に牧師として招聘され、9年間奉仕さ
せていただくことで、伝道者としての良い訓練を与えてくださったのです。10年間の東村
山キリスト教会での経験の上で、府中市での開拓伝道へと導かれました。府中市で体験し
た主のみわざも、不思議がいっぱいでした。再度、経済的な保障はなくなりましたが、結
果として、すべての必要は満たされました。主のみわざは、その時はよく分からないとし
ても、いつも、いつくしみと恵みが満ち溢れていて、最善に導かれるのです。主に身を避
ける人は幸いですとの、ダビデの告白に心から同意できます。
八重山再生プロジェクトへと導かれたことも不思議です。府中の教会に後任牧師が備え
られたことも、石垣に移住し、実際に主のみわざを見せていただいたことも、主の不思議
の連続と言えます。そして光る海教会のこれからも、主が何をなさるのか、その具体的な
みわざは分からないのですが、主に信頼して、主のみわざを待ち望みながら、主のみわざ
に参与させていただくために、自分を差し出し続けましょう。
8節。主の良くしてくださったことを何一つ忘れることなく、主がいつくしみ深い方で
あることを味わい、見つめる者となりましょう。そして10節。自分の力は乏しいけれど、
主を求める者は、良いものに何一つ欠けることはないことを体験したいのです。
私たちは、自分の人生を喜びに溢れるものとしたい、幸せでありたいと願います。その
ためにいろいろなことを考え、事を進めます。それらは大切です。しかし最も大切なの
は、私たちが何かをする前に、主の御腕の中で憩うことです。
12~18節。主はそのような者に目を留め、そのような者に耳を傾け、そのような者の
近くにおられ、救いの御手を伸べてくださいます。19節。主の御前に正しくあることは、
さまざまな苦しみを被ることになるかもしれません。しかし主はそのすべてから救い出し
てくださいます。主に身を避ける人の幸いがここにあります。
22節、主に身を避ける人は、だれも責めを負わないのです。主は主に身を避ける人に、
主のすばらしさを味わわせてくださいます。一年を振り返り、感謝を新たにして、新しい
年も、主に身を避ける幸いを味わう者となりましょう。




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